長短経 / 料敵
夫兩國治戎、交和而合不以冥冥決事、必先探于敵情。故孫子曰、“勝兵先勝而後戰。”又曰、“䇿之而知得失之計、候之而知動静之理。”因形而作勝于衆、用兵之要也。
新字:夫両国治戎、交和而合不以冥冥決事、必先探于敵情。故孫子曰、“勝兵先勝而後戦。”又曰、“策之而知得失之計、候之而知動静之理。”因形而作勝于衆、用兵之要也。
書き下し
夫れ両国戎を治め、和を交えて合するに、冥冥を以て事を決せず、必ず先ず敵の情を探る。故に孫子曰く「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦う」と。又た曰く「之を策りて得失の計を知り、之を候いて動静の理を知る」と。形に因りて勝ちを衆に作すは、兵を用うるの要なり。
現代語訳
二つの国が軍を整え、対峙して向き合うとき、見えない暗がりの中で事を決めず、必ずまず敵の実情を探る。だから孫子は「勝つ軍は、まず勝つ形を作ってから戦う」と言い、また「敵を計って得失の見込みを知り、敵をうかがって動静の道理を知る」と言う。敵の形に応じて多くの兵の中に勝ちを作り出すのが、兵を用いる要である。
解説
料敵の篇は、孫子の、勝つ軍は先に勝ってから戦う、という言葉で始まります。暗がりの中で手探りに決めるのではなく、必ず先に敵の実情を探り、得失を計算し、動きの意味を読む。戦場でぶつかったときには、すでに勝敗が決まっている状態を作っておく。勝負は準備と情報の段階でほぼ決まるのです。この後、敵の実情を読み取る具体的な手がかりが、延々と並べられていきます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
料敵孫子先勝後戦情報収集準備分析
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