長短経 / 七雄略
自幽、平之後、日以陵夷、爵禄多出於陪臣、征伐不由於天子。吳并於越〔越王勾踐敗吳、欲遷吳王於甬東、與百家君之。吳王曰、「孤老矣、不能事君。」王遂自剄死。越王滅吳。、〕晉分為三〔卒。六卿欲弱公室、遂以法盡滅羊舌氏之族、而分其邑為十縣、六卿各以其子為大夫。晉益弱、六卿皆大。哀公四年、趙襄子、韓康子、魏桓子共殺智伯、盡分其地。至烈公十九年、周威王賜趙、韓魏皆命為諸侯。晉遂滅。、〕鄭兼於韓〔鄭桓公者、周厲王少子也、幽王以為司徒。問太史伯曰、「王室多故、予安逃死乎?」太史伯曰、「獨有雒之東土、河濟之南可居。」公曰、「何如?」對曰、「地近虢鄶、虢鄶之君貪而好利、百姓不附。今公為司徒、民皆愛公、請試居之、民皆公之民也。」桓公曰、「善。」竟國之。至後世君乙、為韓哀侯所滅、并其國。鄭遂亡。、〕
新字:自幽、平之後、日以陵夷、爵禄多出於陪臣、征伐不由於天子。呉并於越〔越王勾践敗呉、欲遷呉王於甬東、与百家君之。呉王曰、「孤老矣、不能事君。」王遂自剄死。越王滅呉。、〕晋分為三〔卒。六卿欲弱公室、遂以法尽滅羊舌氏之族、而分其邑為十県、六卿各以其子為大夫。晋益弱、六卿皆大。哀公四年、趙襄子、韓康子、魏桓子共殺智伯、尽分其地。至烈公十九年、周威王賜趙、韓魏皆命為諸侯。晋遂滅。、〕鄭兼於韓〔鄭桓公者、周厲王少子也、幽王以為司徒。問太史伯曰、「王室多故、予安逃死乎?」太史伯曰、「独有雒之東土、河済之南可居。」公曰、「何如?」対曰、「地近虢鄶、虢鄶之君貪而好利、百姓不附。今公為司徒、民皆愛公、請試居之、民皆公之民也。」桓公曰、「善。」竟国之。至後世君乙、為韓哀侯所滅、并其国。鄭遂亡。、〕
書き下し
幽・平より後、日に以て陵夷し、爵禄は多く陪臣より出で、征伐は天子に由らず。呉は越に并せらる。〈越王勾践、呉を敗り、呉王を甬東に遷して、百家を与えて之に君たらしめんと欲す。呉王曰く「孤は老いたり。君に事うる能わず」と。王、遂に自剄して死す。越王、呉を滅ぼす。〉晋は分かれて三と為る。〈六卿、公室を弱めんと欲し、遂に法を以て尽く羊舌氏の族を滅ぼし、其の邑を分かちて十県と為し、六卿、各々其の子を以て大夫と為す。晋、益々弱く、六卿皆な大なり。哀公四年、趙襄子・韓康子・魏桓子、共に智伯を殺し、尽く其の地を分かつ。烈公十九年に至り、周の威王、趙・韓・魏に賜いて皆な命じて諸侯と為す。晋、遂に滅ぶ。〉鄭は韓に兼ねらる。〈鄭の桓公は、周の厲王の少子なり。幽王、以て司徒と為す。太史伯に問いて曰く「王室に故多し。予、安くにか死を逃れんや」と。太史伯曰く「独り雒の東土、河済の南のみ居る可し」と。公曰く「何如」と。対えて曰く「地は虢・鄶に近し。虢・鄶の君は貪にして利を好み、百姓附かず。今、公は司徒と為り、民は皆な公を愛す。請う、試みに之に居らば、民は皆な公の民ならん」と。桓公曰く「善し」と。竟に之を国とす。後世の君乙に至り、韓の哀侯の滅ぼす所と為り、其の国を并す。鄭、遂に亡ぶ。〉
現代語訳
幽王と平王の後は日ごとに衰え、爵位と俸禄は多く陪臣から出て、征伐は天子から出なくなった。呉は越に併合された。〈越王勾践は呉を破り、呉王を甬東へ移して百家を与えてそこの君にしようとした。呉王は「私は老いた。君に仕えられない」と言い、自ら首を刎ねて死んだ。越王は呉を滅ぼした。〉晋は三つに分かれた。〈六卿は公室を弱めようとして、法によって羊舌氏の一族をことごとく滅ぼし、その領地を十県に分け、六卿はそれぞれ自分の子を大夫にした。晋はますます弱まり、六卿はみな大きくなった。哀公四年、趙襄子・韓康子・魏桓子がともに智伯を殺し、その土地をすべて分けた。烈公十九年、周の威王は趙・韓・魏に命じてみな諸侯とした。晋はついに滅びた。〉鄭は韓に併合された。〈鄭の桓公は周の厲王の末子である。幽王が司徒とした。太史伯に尋ねた。「王室に事故が多い。私はどこで死を逃れられるか」。太史伯は言った。「洛の東の地と黄河と済水の南だけが住めます」。「どうしてか」。答えた。「その地は虢と鄶に近い。虢と鄶の君は欲深く利を好み、民が従わない。いまあなたは司徒で、民はみなあなたを慕っている。試しにそこへ住めば、民はみなあなたの民になります」。桓公は「もっともだ」と言い、ついにそこを国とした。後の世の君の乙に至って韓の哀侯に滅ぼされ、その国を併合された。鄭はついに滅びた。〉
解説

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史記 晋世家是の時に当たりて、晋国の政は皆知伯に決し、晋の哀公制する所有るを得ず。知伯遂に范・中行の地を有ち、最も彊し。哀公の四年、趙襄子・韓康子・魏桓子共に知伯を殺し、尽く其の地を并す。十八年、哀公卒し、子の幽公柳立つ。幽公の時、晋畏れ、反って韓・趙・魏の君に朝す。独り絳・曲沃のみを有ち、余は皆三晋に入る。十五年、魏の文侯初めて立つ。十八年、幽公婦人に淫し、夜窃かに邑中に出づ。盗幽公を殺す。魏の文侯兵を以て晋の乱を誅し、幽公の子止を立つ。是を烈公と為す。烈公の十九年、周の威烈王趙・韓・魏に賜ひて皆命じて諸侯と為す。二十七年、烈公卒し、子の孝公頎立つ。孝公の九年、魏の武侯初めて立ち、邯鄲を襲ふも、勝たずして去る。十七年、孝公卒し、子の静公倶酒立つ。是の歳、斉の威王の元年なり。静公の二年、魏の武侯・韓の哀侯・趙の敬侯晋の後を滅ぼして其の地を三分す。静公遷されて家人と為り、晋絶えて祀られず。
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『長短経』七雄略何を以て其の然るを知るや。智伯は趙を伐つの利を見て榆次の禍を知らず、呉王は斉を伐つの便を知りて干遂の敗を知らず。此の二国なる者は大功無きに非ざるなり。前に利に没して後に患いを易るなり。今、王、楚の毀たれざるを妬みて、楚を毀つの韓・魏を強くするを忘る。臣、王の為に慮りて、取らざるなり。王、重世の徳を韓・魏に無くして、累世の怨み有り。夫れ韓・魏の父兄子弟の踵を接して秦に死する者、将に十世ならんとす。身首分離し、骸を革沢に暴す者、境に相い望む。頸を繫ぎ手を束ねて群虜と為る者、路に相い望む。故に韓・魏の亡びざるは、秦の社稷の憂いなり。今、王、之を信じ、兵を与にして楚を攻む。亦た過ちならずや。
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史記 鄭世家孔子嘗て鄭を過り、子産と兄弟の如しと云ふ。子産の死を聞くに及び、孔子為に泣きて曰く、「古の遺愛なり」と。八年、晋の范・中行氏晋に反き、急を鄭に告ぐ。鄭之を救ふ。晋鄭を伐ち、鄭の軍を鉄に敗る。十四年、宋の景公曹を滅ぼす。二十年、斉の田常其の君簡公を弑して、常斉に相たり。二十二年、楚の恵王陳を滅ぼす。孔子卒す。三十六年、晋の知伯鄭を伐ち、九邑を取る。三十七年、声公卒し、子哀公易立つ。哀公八年、鄭人哀公を弑して声公の弟丑を立つ、是を共公と為す。共公三年、三晋知伯を滅ぼす。三十一年、共公卒し、子幽公已立つ。幽公元年、韓の武子鄭を伐ち、幽公を殺す。鄭人幽公の弟駘を立つ、是を繻公と為す。繻公十五年、韓の景侯鄭を伐ち、雍丘を取る。鄭京に城く。十六年、鄭韓を伐ち、韓の兵を負黍に敗る。二十年、韓・趙・魏列して諸侯と為る。二十三年、鄭韓の陽翟を囲む。二十五年、鄭君其の相子陽を殺す。二十七、子陽の党共に繻公駘を弑して幽公の弟乙を立てて君と為す、是を鄭君と為す。鄭君乙立ちて二年、鄭の負黍反き、復た韓に帰す。十一年、韓鄭を伐ち、陽城を取る。二十一年、韓の哀侯鄭を滅ぼし、其の国を并す。
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史記 鄭世家鄭の桓公友は、周の厲王の少子にして宣王の庶弟なり。宣王立ちて二十二年、友初めて鄭に封ぜらる。封ぜられて三十三歳、百姓皆便とし之を愛す。幽王以て司徒と為す。周民を和集し、周民皆説び、河雒の閒、人便とし之を思ふ。司徒と為りて一歳、幽王褒后の故を以て、王室の治多く邪にして、諸侯或いは之に畔く。是に於て桓公、太史伯に問ひて曰く、「王室故多し、予安くにか死を逃れん」と。太史伯対へて曰く、「独り雒の東土、河済の南居るべし」と。公曰く、「何を以てか」と。対へて曰く、「地は虢・鄶に近し。虢・鄶の君は貪にして利を好み、百姓附かず。今公は司徒為り、民皆公を愛す。公誠に之に居らんことを請はば、虢・鄶の君、公の方に事を用ふるを見て、軽々しく公に地を分たん。公誠に之に居らば、虢・鄶の民は皆公の民なり」と。公曰く、「吾南のかた江上に之かんと欲す、何如」と。対へて曰く、「昔祝融は高辛氏の火正と為り、其の功大なり。而して其の周に於ては未だ興る者有らず。楚は其の後なり。周衰へば、楚必ず興らん。興らば、鄭の利に非ざるなり」と。公曰く、「吾西方に居らんと欲す、何如」と。対へて曰く、「其の民貪にして利を好む。久しく居り難し」と。公曰く、「周衰へば、何の国か興る者ぞ」と。対へて曰く、「斉・秦・晋・楚か。夫れ斉は姜姓、伯夷の後なり。伯夷は堯を佐けて礼を典る。秦は嬴姓、伯翳の後なり。伯翳は舜を佐けて百物を懐柔す。楚の先に及ぶまで、皆嘗て天下に功有り。而して周の武王紂に克ちて後、成王叔虞を唐に封ず。其の地阻険なり。此の有徳を以て周の衰ふると并び、亦必ず興らん」と。桓公曰く、「善し」と。是に於て卒に王に言ひ、東のかた其の民を雒の東に徙す。而して虢・鄶果たして十邑を献じ、竟に之を国とす。二歳にして、犬戎幽王を驪山の下に殺し、并せて桓公を殺す。鄭人共に其の子掘突を立つ、是を武公と為す。武公十年、申侯の女を娶りて夫人と為す、武姜と曰ふ。