長短経 / 三国権
上行其䇿、陳人益弊後發兵、以薛道衡為淮南道行臺尚書、兼掌文翰。及王師臨江、髙熲召道衡、夜坐幕下、因問曰、「今師之舉、克定江東以不君試言之。」道衡荅曰、「凡論大事成敗、先須以至理斷之、禹貢所載九州、本是王者封域。後漢之季、羣雄競起、孫權兄弟、遂有吴楚之地。晋武受命、尋即呑并、永嘉南遷、重此分割。自爾已来、戰争不息。否終斯泰、天道之恒郭璞有云、『江東偏王三百年、還與中國合。』今數將滿矣。以運數而言、其必克一也。有徳者昌、無徳者亡、自古興滅、皆由此道。主上躬履㳟儉、憂勞庶政、叔寳峻宇雕牆、酣酒荒色、上下離心、人神同憤、其必克二也。
新字:上行其策、陳人益弊後発兵、以薛道衡為淮南道行台尚書、兼掌文翰。及王師臨江、高熲召道衡、夜坐幕下、因問曰、「今師之舉、克定江東以不君試言之。」道衡荅曰、「凡論大事成敗、先須以至理断之、禹貢所載九州、本是王者封域。後漢之季、羣雄競起、孫権兄弟、遂有呉楚之地。晋武受命、尋即呑并、永嘉南遷、重此分割。自爾已来、戦争不息。否終斯泰、天道之恒郭璞有云、『江東偏王三百年、還与中国合。』今数将満矣。以運数而言、其必克一也。有徳者昌、無徳者亡、自古興滅、皆由此道。主上躬履㳟倹、憂労庶政、叔宝峻宇雕牆、酣酒荒色、上下離心、人神同憤、其必克二也。
書き下し
上、其の策を行い、陳人益々弊る。後に兵を発し、薛道衡を以て淮南道行台尚書と為し、兼ねて文翰を掌らしむ。王師の江に臨むに及び、高熲、道衡を召し、夜幕下に坐し、因りて問いて曰く「今の師の挙、江東を克定するや不や。君試みに之を言え」と。道衡答えて曰く「凡そ大事の成敗を論ずるは、先ず須らく至理を以て之を断ずべし。禹貢に載する所の九州は、本と是れ王者の封域なり。後漢の季、群雄競い起こり、孫権兄弟遂に呉楚の地を有つ。晋武命を受けて、尋いで即ち呑并す。永嘉南遷して、重ねて此に分割す。爾れより已来、戦争息まず。否終われば斯に泰なり、天道の恒なり。郭璞云える有り『江東は偏王すること三百年、還りて中国と合す』と。今、数将に満たんとす。運数を以て言えば、其の必ず克つこと一なり。徳有る者は昌え、徳無き者は亡ぶ。古より興滅は皆此の道に由る。主上は恭倹を躬ら履み、庶政を憂労す。叔宝は宇を峻くし牆を雕り、酒に酣し色に荒み、上下心を離し、人神同じく憤る。其の必ず克つこと二なり。
現代語訳
文帝はその策を行い、陳の人々はますます疲れた。後に兵を出し、薛道衡を淮南道行台尚書として、文書の起草も担当させた。隋軍が長江に臨むと、高熲は薛道衡を呼び、夜に陣幕の下に座って問うた。「今度の出兵で、江東を平定できるかどうか。試しに言ってみてくれ」。薛道衡は答えた。「大事の成否を論じるには、まず根本の道理で判断すべきです。『禹貢』に載る九州は、もともと王者の領域です。後漢の末に群雄が競い起こり、孫権兄弟が呉楚の地を手にしました。晋の武帝が天命を受けると、まもなく併合しました。永嘉の乱で南に移り、またここで分割されました。それ以来、戦争はやみません。閉塞が極まれば通じるのが天道の常です。郭璞は『江東が偏って王を立てるのは三百年、そして中原と合わさる』と言いました。いまその数がまさに満ちようとしています。天運の数から言えば、必ず勝つ理由の一つ目です。徳ある者は栄え、徳のない者は滅ぶ。昔から興亡はすべてこの道によります。わが主上は恭しく倹約を自ら行い、政務に心を砕いておられる。陳の叔宝は宮殿を高くし壁に彫刻を施し、酒に溺れ色に荒み、上下の心は離れ、人も神も同じく憤っています。これが必ず勝つ理由の二つ目です。
解説
この章句が説くこと
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『長短経』三国権国を為むるの体は、任寄に在り。彼の公卿は、員に備わるのみ。小人施文慶を抜きて、委ぬるに政事を以てす。尚書令江総は、唯だ詩酒を事とし、本と経略の才に非ず。蕭摩訶・任蛮奴は是れ其の大将なるも、一夫の用のみ。其の必ず克つこと三なり。我は道有りて大なり、彼は徳無くして小なり。其の甲士を量るに、十万に過ぎず。西は巫峡より東は滄海に至る。之を分かてば則ち勢い懸かにして力弱く、之を聚むれば則ち此を守りて彼を失う。其の必ず克つこと四なり。席巻の兆し、其れ疑わざるに在り」と。熲、忻然として曰く「君の成敗を言うや、理甚だ分明なり。吾今豁然たり。本と才学を以て相期す。意わざりき、籌略乃ち此に至らんとは」と。遂に兵を進め、叔宝を虜にす。此れ呉を滅ぼすの形なり。
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