長短経 / 三国権
周瑜等水軍三萬、與劉備并力距曹公、用黄盖火攻䇿、遂敗曹公於赤壁。〔初一日交戰、曹公軍破、退引次江北、瑜等在南岸。瑜部將黄盖曰、「今冦衆我寡、難與持久。然觀操軍、方連舩檻首尾相接、可燒而走也。」乃取蒙衝鬪檻數十艘、實以薪草、膏灌其中、裹以帷幕、上建牙旗。先書報曹公、欺以欲降、盖又豫備走舸、各繫火舩後、因引次俱前。曹公軍吏士皆延頸觀望、指言盖降。去北軍二里餘、同時發火、火烈風猛、舩至如箭、飛埃絶熖燒盡北舩延燒岸上營落、頃之、烟焰漲天、人馬燒溺、死者甚衆。瑜率輕鋭尋繼其後、雷鼓大進。曹公留曹仁等守江陵、徑自北歸。瑜又進南郡、與曹仁相對、仁遂退〕
新字:周瑜等水軍三万、与劉備并力距曹公、用黄盖火攻策、遂敗曹公於赤壁。〔初一日交戦、曹公軍破、退引次江北、瑜等在南岸。瑜部将黄盖曰、「今寇衆我寡、難与持久。然観操軍、方連舩檻首尾相接、可焼而走也。」乃取蒙衝闘檻数十艘、実以薪草、膏灌其中、裹以帷幕、上建牙旗。先書報曹公、欺以欲降、盖又予備走舸、各繋火舩後、因引次倶前。曹公軍吏士皆延頸観望、指言盖降。去北軍二里余、同時発火、火烈風猛、舩至如箭、飛埃絶熖焼尽北舩延焼岸上営落、頃之、烟炎漲天、人馬焼溺、死者甚衆。瑜率軽鋭尋継其後、雷鼓大進。曹公留曹仁等守江陵、径自北帰。瑜又進南郡、与曹仁相対、仁遂退〕
書き下し
周瑜等の水軍三万、劉備と力を并せて曹公を距ぎ、黄蓋の火攻の策を用いて、遂に曹公を赤壁に敗る。〔初め一日交戦し、曹公の軍破れ、退きて江北に引き次る。瑜等は南岸に在り。瑜の部将黄蓋曰く「今、寇は衆く我は寡なし。与に久しきを持し難し。然れども操の軍を観るに、方に船艦を連ね、首尾相接す。焼きて走らすべきなり」と。乃ち蒙衝闘艦数十艘を取り、実たすに薪草を以てし、膏を其の中に灌ぎ、裹むに帷幕を以てし、上に牙旗を建つ。先ず書もて曹公に報じ、欺くに降らんと欲するを以てす。蓋又た予め走舸を備え、各々火船の後ろに繋ぎ、因りて引き次りて俱に前む。曹公の軍の吏士、皆頸を延べて観望し、指さして蓋降ると言う。北軍を去ること二里余り、同時に火を発す。火烈しく風猛く、船の至ること箭の如く、飛埃絶焰、尽く北船を焼き、延きて岸上の営落を焼く。頃之、煙焰天に漲り、人馬焼溺し、死する者甚だ衆し。瑜は軽鋭を率いて尋いで其の後に継ぎ、雷鼓して大いに進む。曹公は曹仁等を留めて江陵を守らしめ、径ちに自ら北に帰る。瑜又た南郡に進み、曹仁と相対し、仁遂に退く。〕
現代語訳
周瑜らの水軍三万は劉備と力を合わせて曹操を防ぎ、黄蓋の火攻めの策を用いて、ついに赤壁で曹操を破った。〔はじめ一日戦ったとき、曹操の軍は敗れ、退いて長江の北岸に陣を移した。周瑜らは南岸にいた。周瑜の部将黄蓋が言った。「いま敵は多く我々は少ないので、長く持ちこたえるのは難しい。しかし曹操の軍を見ると、船を連ね、船首と船尾がくっつき合っています。焼いて敗走させられます」。そこで突撃艦と戦艦数十艘に薪と草を詰め、油を注ぎ、幕で包み、上に大将旗を立てた。まず手紙を曹操に送り、降伏すると偽った。黄蓋はさらに小回りのきく快速船を用意し、火船の後ろにつなぎ、列を作って進んだ。曹操軍の将兵は皆首を伸ばして眺め、黄蓋が降ってきたと指さした。北軍まで二里余りのところで一斉に火を放った。火は激しく風は強く、船は矢のように突っ込み、火の粉と炎が北の船をことごとく焼き、岸の陣営にまで燃え広がった。たちまち煙と炎が天に満ち、人馬は焼け、溺れ、死者は非常に多かった。周瑜は精鋭を率いてすぐ後に続き、太鼓を雷のように鳴らして大いに進んだ。曹操は曹仁らを残して江陵を守らせ、自らはまっすぐ北へ帰った。周瑜はさらに南郡に進んで曹仁と対峙し、曹仁はついに退いた。〕
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』水火故に知る、水火の変は、以て勝ちを制すべきこと、其の来たること久し。秦人涇の上流に毒して、晋軍多く死す。荊王楚の積聚を焼きて、項氏以て擒にせらる。曹公泗を下邳に決して、呂布戮に就く。黄蓋赤壁に火攻して、魏祖奔衄す。此れ将の至任にして、蓋し軍中尤も急なる者なり。察せざるべからず。
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『長短経』三国権備、亮の計を用い、好を孫権に結び、共に曹公を赤壁に拒ぎ、之を破る。曹公北に還り、権乃ち荊州を以て備に業とす。〔周瑜上疏して諫めて曰く「劉備は梟雄の姿を以てし、而して関羽・張飛は熊虎の将なり。必ず久しく屈して人の用を為す者に非ず。愚謂えらく、大計は宜しく備を徙して呉に置き、盛んに為に室を築き、其の美女玩好の物を多くして、以て其の耳目を娯しましむべし。此の二人を分かちて、各々一方に置き、瑜の如き者をして、挟みて与に攻戦するを得しめば、大事定むべきなり。今、猥りに土地を割きて、以て之に資業し、此の三人を聚めて俱に疆場に在らしむ。恐らくは蛟龍雲雨を得ば、復た池中の物に非ざらん」と。権は曹公北方に在るを以て、当に広く英雄を攬るべしとし、故に納れざるなり。〕
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『長短経』三国権周瑜曰く「然らず。操は名を漢の相に託すと雖も、其の実は漢の賊なり。将軍は神武の雄才を以て、兼ねて父兄の烈に仗り、江東を割拠し、地は方数千里、精兵用うるに足り、英雄業を楽しむ。尚お当に天下に横行し、漢家の為に残を除き穢を去るべし。況んや操自ら死を送るに、之を迎うべけんや。請う、将軍の為に之を籌らん。今、北土をして已に安んじ、操に内憂無からしめば、能く日を曠しくし久しきを持して、来たりて疆場を争い、又た能く我と勝負を舟楫に校べんも可なり。今、北土既に未だ安んぜず、馬超・韓遂尚お関西に在りて、操の後患と為る。且つ鞍馬を捨て、舟楫に仗りて呉・越と衡を争うは、本と中国の長ずる所に非ず。又た今盛寒にして、馬に藁草無く、中国の士衆を駆りて遠く江湖の間に渉らしめ、水土に習わず、必ず疾病を生ぜん。此の数四の者は兵を用うるの患いなり。而して操皆冒して之を行う。将軍、操を擒にするは、宜しく今日に在るべし。瑜請う、精兵三万人を得て、進みて夏口に住まり、保して将軍の為に之を破らん」と。権曰く「老賊、漢を廃して自立せんと欲すること久し。徒だ二袁・呂布・劉表と孤とを忌むのみ。今、数雄已に滅び、唯だ孤のみ尚お存す。孤と老賊とは、勢い両立せず。君の当に撃つべしと言うは、甚だ孤と合う。此れ天の君を以て孤に授くるなり」と。
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『長短経』三国権亮曰く「豫州の軍、長坂に敗るると雖も、今、戦士の還る者及び関羽の将いる所の精甲万人、劉琦の江夏の戦士を合わすも亦た万人を下らず。曹操の衆は、遠来して疲弊す。聞く、豫州を追うに、騎は一日一夜に三百里を行く、と。此れ所謂強弩の末、魯縞を穿つこと能わざる者なり。故に兵法に之を忌みて曰く『必ず上将軍を蹶す』と。且つ北方の人は水戦に習わず。又た荊州の人の操に附く者は、兵勢に逼らるるのみにして、心服するに非ざるなり。今、将軍誠に猛将に命じて兵数万を統べしめ、豫州と規を協わせ力を同じくせば、操の軍を破ること必せり。操の軍破れなば、必ず北に還らん。此くの如くんば則ち荊・呉の勢い強く、鼎足の形成らん。成敗の機、今日に在り」と。権大いに悦び、即ち周瑜・魯粛を遣わし、亮に随いて先主に詣り、力を并せて曹公を拒ぐなり。〕
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『長短経』三国権操、其の水軍の船・歩卒数十万を得。呉の将士之を聞き、皆恐る。孫権、群下を延見し、問うに計策を以てす。議する者咸な曰く「曹公は豺虎なり。名を漢の相に託し、天子を挟みて以て四方を征し、動もすれば朝廷を以て辞と為す。今日之を拒げば、事更に順ならず。且つ将軍の大勢の以て操を距ぐべき者は、長江なり。今、操は荊州を得て、奄く其の地を有す。劉表の治めし水軍、蒙衝闘艦は乃ち千を以て数う。操悉く浮かべて以て江に沿い、兼ねて歩兵有りて、水陸俱に下る。此れ長江の険、已に我と之を共にするなり。而して勢力の衆寡も又た論ずべからず。愚謂えらく、大計は之を迎うるに如かず」と。
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『長短経』三国権曹公敗れ、径ちに北に還る。権遂に江表に虎視す。〔時に劉璋、益州牧たり、外に張魯の寇侵有り。瑜乃ち京に詣りて権に見えて曰く「今、曹操は新たに衄れ、方に腹心を憂え、未だ能く将軍と兵を連ねて相事とせず。乞う、奮威と俱に進みて蜀を取り、蜀を得て張魯を并せ、奮威を留めて其の地を固守せしめ、好んで馬超と援を結ばん。瑜は将軍と襄陽に拠りて以て操を蹙めば、北方図るべきなり」と。権之を許す。会々瑜卒し、果たさず。〕