長短経 / 三国権
先主怒吳、伐之、敗績。還蜀、至永安而崩。〔初、魏文帝聞備東下與孫權交戰、樹柵連營七百餘里、謂羣臣曰、「備不暁兵機、豈有七百里營可以距敵乎?包原隰阻險而為軍者、為敵所禽、此兵忌。也孫權上事今至矣!」後七日、權破備於夷陵、書至。〕
新字:先主怒呉、伐之、敗績。還蜀、至永安而崩。〔初、魏文帝聞備東下与孫権交戦、樹柵連営七百余里、謂羣臣曰、「備不暁兵機、豈有七百里営可以距敵乎?包原隰阻険而為軍者、為敵所禽、此兵忌。也孫権上事今至矣!」後七日、権破備於夷陵、書至。〕
書き下し
先主、呉を怒りて之を伐ち、敗績す。蜀に還り、永安に至りて崩ず。〔初め、魏の文帝、備の東下して孫権と交戦し、柵を樹て営を連ぬること七百余里なるを聞き、群臣に謂いて曰く「備は兵機を暁らず。豈に七百里の営にして以て敵を距ぐべき有らんや。原隰険阻を包みて軍を為す者は、敵の禽とする所と為る。此れ兵の忌なり。孫権の上事、今至らん」と。後七日、権、備を夷陵に破り、書至る。〕
現代語訳
劉備は呉に怒って攻めたが、大敗した。蜀に帰る途中、永安で亡くなった。〔はじめ魏の文帝曹丕は、劉備が東へ下って孫権と戦い、柵を立てて陣営を七百里余りも連ねていると聞き、群臣に言った。「劉備は兵法を知らない。七百里にわたる陣営で敵を防げるはずがあろうか。平原や湿地、険しい地を抱え込んで陣を張る者は、敵に捕らえられる。これは兵法の禁忌だ。孫権からの勝利の報告が、もうすぐ届くだろう」。七日後、孫権は夷陵で劉備を破り、その報告が届いた。〕
解説
関羽を失った劉備は怒りにまかせて呉を攻め、七百里にわたって陣を連ねました。遠くでこれを聞いた曹丕は、陣を長く伸ばせば一か所を破られただけで全体が崩れると見抜き、敗北を予言します。七日後、そのとおりになった。怒りで始めた戦いは、形の悪さを自分では見えなくします。劉備ほど人を見る目のあった人でも、感情が判断の中心に座ったとき、遠くの敵にすら見える欠陥を見落としたのです。
この章句が説くこと
三国権劉備曹丕怒り夷陵布陣
関連する章句
-
孫子・軍争篇孫子曰く、凡そ兵を用うるの法は、将、命を君より受け、軍を合し衆を聚め、和を交へて舍る。軍争より難きは莫し。
-
孫子・行軍篇孫子曰く、凡そ軍を処き敵を相るに、山を絶つには谷に依り、生を視て高きに処り、隆きに戦うには登ること無かれ。此れ山に処るの軍なり。
-
孫子・行軍篇丘陵堤防には、必ず其の陽に処りて、之を右背にす。此れ兵の利、地の助けなり。上に雨ふり、水沫至らば、渉らんと欲する者は、其の定まるを待て。
-
『長短経』三国権備、亮の計を用い、好を孫権に結び、共に曹公を赤壁に拒ぎ、之を破る。曹公北に還り、権乃ち荊州を以て備に業とす。〔周瑜上疏して諫めて曰く「劉備は梟雄の姿を以てし、而して関羽・張飛は熊虎の将なり。必ず久しく屈して人の用を為す者に非ず。愚謂えらく、大計は宜しく備を徙して呉に置き、盛んに為に室を築き、其の美女玩好の物を多くして、以て其の耳目を娯しましむべし。此の二人を分かちて、各々一方に置き、瑜の如き者をして、挟みて与に攻戦するを得しめば、大事定むべきなり。今、猥りに土地を割きて、以て之に資業し、此の三人を聚めて俱に疆場に在らしむ。恐らくは蛟龍雲雨を得ば、復た池中の物に非ざらん」と。権は曹公北方に在るを以て、当に広く英雄を攬るべしとし、故に納れざるなり。〕
-
『長短経』三国権〔初め、張松・法正、備に見ゆ。備、私意を以て接納し、其の慇懃を尽くす。因りて蜀中の兵器・府庫・人馬の衆寡及び諸々の要害を問う。松等具さに為に之を言い、又た地図を画き、山川を処置す。是に由りて尽く益州の虚実を知る。先主北のかた葭萌に到り、未だ即ち魯を討たず、厚く恩徳を樹てて以て衆心を収む。明年、曹公孫権を征し、権、先主を呼びて自ら救わしむ。備乃ち璋に従いて万兵及び資宝を求め、以て東行して権を救わんと欲す。璋は但だ兵四千を許し、其の余は皆半ば給す。備因りて其の衆を激怒せしめて曰く「吾は益州の為に強敵を征し、師徒勤瘁して、寧居するに遑あらず。今、帑蔵の財を積みて、而も賞功に吝かなり。士大夫の為に死力を出だして戦わんことを望むも、其れ得べけんや」と。乃ち璋の白水の軍督楊懐を召し、責むるに無礼を以てして、之を斬る。黄忠等をして軍を勒して璋に向かわしむ。先主径ちに関に至り、諸将士卒の妻子を質とす。兵を引きて忠等に従いて進みて涪に到り、其の城に拠る。璋の遣わす所の将、皆破敗するなり。〕即ち懐等を斬り、葭萌より還りて璋を取る。
-
『長短経』三国権曹公敗れ、径ちに北に還る。権遂に江表に虎視す。〔時に劉璋、益州牧たり、外に張魯の寇侵有り。瑜乃ち京に詣りて権に見えて曰く「今、曹操は新たに衄れ、方に腹心を憂え、未だ能く将軍と兵を連ねて相事とせず。乞う、奮威と俱に進みて蜀を取り、蜀を得て張魯を并せ、奮威を留めて其の地を固守せしめ、好んで馬超と援を結ばん。瑜は将軍と襄陽に拠りて以て操を蹙めば、北方図るべきなり」と。権之を許す。会々瑜卒し、果たさず。〕