長短経 / 七雄略
景帝用晁錯之計、削吳楚。〔晁錯説上曰、「昔高帝初定天下、昆弟少、諸子弱、大封同姓、故孽子悼恵王王齊七十二城、庶弟元王王楚四十城、兄子王吳五十餘城、封三庶孽、分天下半。今吳王前有太子之隟輒稱病不朝、於古法當誅。文帝不忍、因賜几杖、徳至厚也。不改過自新、乃益驕恣。公即山鑄錢、煮海為鹽、誘天下亡人、謀作亂逆。今削之亦反、不削亦反、削之反亟禍小、不削反遲禍大。」於是漢臣庭議削吳、吳乃反矣。〕
新字:景帝用晁錯之計、削呉楚。〔晁錯説上曰、「昔高帝初定天下、昆弟少、諸子弱、大封同姓、故孽子悼恵王王斉七十二城、庶弟元王王楚四十城、兄子王呉五十余城、封三庶孽、分天下半。今呉王前有太子之隟輒称病不朝、於古法当誅。文帝不忍、因賜几杖、徳至厚也。不改過自新、乃益驕恣。公即山鋳銭、煮海為塩、誘天下亡人、謀作乱逆。今削之亦反、不削亦反、削之反亟禍小、不削反遅禍大。」於是漢臣庭議削呉、呉乃反矣。〕
書き下し
景帝、晁錯の計を用いて、呉・楚を削る。〔晁錯、上に説きて曰く「昔、高帝初めて天下を定むるに、昆弟少なく、諸子弱し。大いに同姓を封ず。故に孽子悼恵王は斉七十二城に王たり、庶弟元王は楚四十城に王たり、兄の子は呉五十余城に王たり。三庶孽を封じ、天下を分かつこと半ばなり。今、呉王は前に太子の隙有りて、輒ち病と称して朝せず。古法に於いて当に誅すべし。文帝忍びず、因りて几杖を賜う。徳至りて厚し。過ちを改め自ら新たにせず、乃ち益々驕恣なり。山に即きて銭を鋳、海を煮て塩と為し、天下の亡人を誘い、乱逆を作さんと謀る。今、之を削るも亦た反し、削らざるも亦た反す。之を削らば反すること亟やかにして禍小さく、削らずんば反すること遅くして禍大なり」と。是に於て漢臣庭に議して呉を削り、呉乃ち反す。〕
現代語訳
景帝は晁錯の計を用いて、呉と楚の領地を削った。〔晁錯は帝に説いた。「昔、高帝が天下を定めたとき、兄弟は少なく子らは幼かったので、同姓を大いに封じました。庶子の悼恵王は斉の七十二城の王、腹違いの弟の元王は楚の四十城の王、兄の子は呉の五十余城の王となりました。三人の庶子に天下の半分を分け与えたのです。いま呉王は、以前に太子との確執があって、病と称して朝廷に来ません。昔の法なら誅殺すべきところですが、文帝は忍びず、肘掛けと杖を賜りました。この上なく厚い徳です。それなのに過ちを改めず、ますます驕っています。山で銭を鋳造し、海水を煮て塩を作り、天下の逃亡者を誘い込んで反乱を企んでいます。いま削っても反乱し、削らなくても反乱します。削れば反乱は早いが禍は小さく、削らなければ反乱は遅いが禍は大きくなります」。そこで漢の臣は朝廷で議論して呉を削り、呉は反乱を起こした。〕
解説

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史記 呉王濞列伝晁錯太子の家令と為り、太子に幸せらるるを得て、数々従容として呉の過の削るべきを言ふ。数々上書して孝文帝に説く。文帝寛にして、罰するに忍びず。此を以て呉日に益々横なり。孝景帝即位するに及び、錯御史大夫と為り、上に説きて曰く、「昔高帝初めて天下を定め、昆弟少く、諸子弱し。大いに同姓を封ず。故に孽子悼恵王を王として斉七十余城に王たらしめ、庶弟元王楚四十余城に王たり、兄の子濞呉五十余城に王たり。三庶孽を封じて、天下の半ばを分かつ。今呉王は前に太子の郄有り、詐りて病と称して朝せず。古法に於て当に誅すべし。文帝忍びず、因りて几杖を賜ふ。徳至って厚し。当に過を改めて自ら新たにすべし。乃ち益々驕溢し、山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の亡人を誘ひ、乱を作さんことを謀る。今之を削るも亦反し、之を削らざるも亦反す。之を削れば、其の反すること亟かにして、禍小なり。削らざれば、反すること遅くして、禍大なり」と。三年冬、楚王朝す。晁錯因りて言ふ、楚王戊往年薄太后の為に服するに、私かに服舎に姦すと。之を誅せんことを請ふ。詔して赦し、罰して東海郡を削る。因りて呉の豫章郡・会稽郡を削る。前二年に及び趙王罪有り、其の河間郡を削る。膠西王卬爵を売るに姦有るを以て、其の六県を削る。漢廷の臣方に呉を削らんことを議す。呉王濞地を削らるること已む無きを恐れ、因りて此を以て謀を発し、事を挙げんと欲す。念ふに諸侯に与に計謀するに足る者無し。膠西王の勇にして、気を好み、兵を喜み、諸斉皆憚り畏るるを聞く。是に於て乃ち中大夫応高をして膠西王を誂ましむ。文書無く、口もて報じて曰く、「呉王不肖にして、宿夕の憂有り。敢へて自ら外にせず、其の驩心を喩さしむ」と。王曰く、「何を以てか之に教ふる」と。高曰く、「今者主上姦に興り、邪臣に飾られ、小善を好み、讒賊を聴き、擅に律令を変更し、諸侯の地を侵奪し、徴求滋々多く、良善を誅罰すること、日に以て益々甚だし。里語に之有り、『糠を舐りて米に及ぶ』と。
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史記 呉王濞列伝当に賜ふべき者有らば寡人に告げよ。寡人且に往きて之を遺らんとす。敬みて以て聞す」と。七国反するの書天子に聞す。天子乃ち太尉条侯周亜夫をして三十六将軍を将ゐて、往きて呉楚を撃たしむ。曲周侯酈寄を遣はして趙を撃たしむ。将軍欒布斉を撃つ。大将軍竇嬰滎陽に屯し、斉趙の兵を監す。呉楚反するの書聞す。兵未だ発せず、竇嬰未だ行かざるに、故の呉の相袁盎を言ふ。盎時に家居す。詔して召して入見せしむ。上方に晁錯と兵を調へ軍食を笇ふ。上袁盎に問ひて曰く、「君嘗て呉の相為り。呉の臣田禄伯の人と為りを知るか。今呉楚反す。公に於て何如」と。対へて曰く、「憂ふるに足らざるなり。今破れん」と。上曰く、「呉王山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の豪桀を誘ひ、白頭にして事を挙ぐ。此の若くんば、其の計百全ならずんば、豈に発せんや。何を以て其の能く為す無しと言ふや」と。袁盎対へて曰く、「呉に銅塩の利有るは則ち之有り。安くんぞ豪桀を得て之を誘はん。誠に呉をして豪桀を得しめば、亦且に王を輔けて義を為さんとし、反せざらん。呉の誘ふ所は皆無頼の子弟、亡命して銭を鋳る姦人なり。故に相率ゐて以て反す」と。晁錯曰く、「袁盎の之を策すること善し」と。上問ひて曰く、「計安くにか出づる」と。盎対へて曰く、「願はくは左右を屏けよ」と。上人を屏く。独り錯在り。盎曰く、「臣の言ふ所は、人臣知るを得ざるなり」と。乃ち錯を屏く。錯趨りて東廂に避け、恨むこと甚だし。上卒に盎に問ふ。盎対へて曰く、「呉楚相遺る書に曰く、『高帝子弟を王とし各々分地有り。今賊臣晁錯擅に諸侯を適過し、之が地を削奪す』と。故に反するを以て名と為し、西して共に晁錯を誅し、故地を復して罷めんとす。方今の計は、独り晁錯を斬り、使を発して呉楚七国を赦し、其の故の削地を復せば、則ち兵は刃に血ぬること無くして倶に罷むべし」と。是に於て上嘿然たること良久しくして、曰く、「顧ふに誠に何如。吾一人を愛しみて以て天下に謝せざらんや」と。盎曰く、「臣の愚計は此に出づる無し。願はくは上之を孰計せよ」と。
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史記 呉王濞列伝乃ち盎を拝して太常と為し、呉王の弟の子徳侯を宗正と為す。盎装して行を治む。後十余日、上中尉をして錯を召さしめ、紿きて載せて東市に行く。錯朝衣を衣て東市に斬らる。則ち袁盎をして宗廟を奉ぜしめ、宗正をして親戚を輔けしめ、呉に告ぐること盎の策の如くせしむ。呉に至るに、呉楚の兵已に梁の壁を攻む。宗正は親の故を以て、先づ入りて見え、呉王に諭して拝して詔を受けしめんとす。呉王袁盎の来るを聞き、亦其の己に説かんと欲するを知り、笑ひて応へて曰く、「我已に東帝と為る。尚ほ誰にか拝せん」と。盎に見ゆるを肯ぜずして之を軍中に留め、劫かして将たらしめんと欲す。盎肯ぜず。人をして囲み守らしめ、且に之を殺さんとす。盎夜出づるを得て、歩みて亡げ去り、梁の軍に走り、遂に帰りて報ず。条侯将に六乗の伝に乗り、兵を滎陽に会せんとす。雒陽に至り、劇孟を見て、喜びて曰く、「七国反し、吾伝に乗りて此に至る。自ら全きを意はず。又以為へらく諸侯已に劇孟を得たりと。劇孟今動く無し。吾滎陽に拠らば、以東は憂ふるに足る者無し」と。淮陽に至り、父絳侯の故客鄧都尉に問ひて曰く、「策安くにか出づる」と。客曰く、「呉の兵鋭きこと甚だし。与に鋒を争ひ難し。楚の兵は軽く、久しくする能はず。方今将軍の為に計るに、兵を引きて東北のかた昌邑に壁し、梁を以て呉に委ぬるに若くは莫し。呉必ず鋭を尽くして之を攻めん。将軍は溝を深くし塁を高くし、軽兵をして淮泗の口を絶ち、呉の饟道を塞がしめよ。彼呉梁相敝れて糧食竭きなば、乃ち全彊を以て其の罷極を制せば、呉を破ること必せり」と。条侯曰く、「善し」と。其の策に従ひ、遂に昌邑の南に壁を堅くし、軽兵もて呉の饟道を絶つ。
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史記 孝景本紀太史公曰く、漢興り、孝文大徳を施し、天下懐安す。孝景に至り、復た異姓を憂へず、而して晁錯諸侯を刻削し、遂に七国をして俱に起こり、合従して西鄉せしむ。諸侯の太だ盛んなるを以てして、錯之を為すこと漸を以てせざればなり。
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史記 呉王濞列伝正月に兵を起こし、三月に皆破れ、独り趙のみ後に下る。復た元王の少子平陸侯礼を置きて楚王と為し、元王の後を続がしむ。汝南王非を徙して呉の故地に王たらしめ、江都王と為す。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌しは、其の子より興る。技を争ひて難を発し、卒に其の本を亡ぼす。越に親しみて宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠く慮り、禍反つて身に近づく。袁盎権説して、初めは寵せられ後に辱めらる。故に古者は諸侯の地百里に過ぎず、山海は以て封ぜず。「夷狄に親しみて、以て其の属を疏んずる毋かれ」とは、蓋し呉を謂ふか。「権首と為る毋かれ、反つて其の咎を受けん」とは、豈に盎・錯か。
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