長短経 / 七雄略
魏王善之、故身廣公宫、制丹衣、柱建九斿、從七星之旗。此天子之位也、而魏王處之。於是齊、楚怒、諸侯奔齊、齊人伐魏、殺太子、覆其十萬之軍。是時、秦王拱手受河西之外故衛鞅始與秦王計也、謀約不下席、而魏將已擒於齊矣、衝櫓未施、而西河之外已入於秦矣。此臣之所謂北之堂上、擒將户内、拔城於樽俎之間、折衝於席上者也。」
新字:魏王善之、故身広公宮、制丹衣、柱建九斿、従七星之旗。此天子之位也、而魏王処之。於是斉、楚怒、諸侯奔斉、斉人伐魏、殺太子、覆其十万之軍。是時、秦王拱手受河西之外故衛鞅始与秦王計也、謀約不下席、而魏将已擒於斉矣、衝櫓未施、而西河之外已入於秦矣。此臣之所謂北之堂上、擒将戸内、抜城於樽俎之間、折衝於席上者也。」
書き下し
魏王、之を善しとす。故に身ら公宮を広くし、丹衣を制し、柱に九斿を建て、七星の旗を従う。此れ天子の位なり。而して魏王、之に処る。是に於て斉・楚怒り、諸侯、斉に奔る。斉人、魏を伐ち、太子を殺し、其の十万の軍を覆す。是の時、秦王は手を拱きて河西の外を受く。故に衛鞅、始め秦王と計るや、謀約は席を下らずして、魏将は已に斉に擒にせらる。衝櫓未だ施さずして、西河の外は已に秦に入る。此れ臣の所謂堂上に北がしめ、将を戸内に擒にし、城を樽俎の間に抜き、衝を席上に折る者なり」と。
現代語訳
魏王はこれをよしとした。そこで自ら公の宮殿を広げ、朱の衣を作り、柱に九つの吹き流しを立て、七星の旗を従えた。これは天子の格式である。それを魏王が用いた。そこで斉と楚が怒り、諸侯は斉へ走った。斉の人が魏を伐ち、太子を殺し、その十万の軍を覆した。このとき秦王は手を組んだまま河西の外を受け取った。だから商鞅が秦王と計ったとき、謀の取り決めは席を立たないうちに終わり、魏の将はすでに斉に捕らえられた。攻城車も用いないのに、西河の外はすでに秦のものになった。これが私のいう、堂の上で敗らせ、将を部屋の中で捕らえ、城を酒席のあいだに落とし、攻城車を座敷の上で折るということである」。
解説
この章句が説くこと
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『長短経』七雄略何を以て其の然るを知るや。昔、魏王、兵を千里に擁し、帯甲三十万、十二諸侯を従えて天子に朝し、以て西のかた秦を謀る。秦恐れ、寝ぬるに席安からず、食らうに味甘からず。衛鞅、秦王に謀りて曰く「王、何ぞ臣をして魏王に見えしめざる。則ち臣、必ず魏を北がしめんことを請う」と。秦王許諾す。衛鞅、魏王に見えて曰く「大王の功は大なり。令は天下に行わる。従う所の十二諸侯は、宋・衛に非ずんば則ち鄒・魯・陳・蔡なり。此れ固より大王の鞭箠して使う所なり。以て天下に王たるに足らず。北のかた燕を取り、東のかた斉を伐たば、則ち趙必ず従わん。西のかた秦を取り、南のかた楚を伐たば、則ち韓必ず従わん、に若かず。大王に斉・楚を伐つの心有りて、天下の志に従わば、則ち王業見れん。大王、先ず王服を行いて、然る後に斉・楚を図るに如かず」と。
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『長短経』七雄略魏の襄王に説きて曰く「大王の地は、南に鴻溝・陳汝有り、東に淮・潁・煑棗有り、西に長城の界有り、北に河外・巻・衍有り。地は方千里、地名は小なりと雖も、然れども田と舎廬と、曽て芻牧の地無し。人民の衆き、車馬の多き、日夜行きて絶えず、輷輷殷殷として、三軍の衆有るが若し。魏は、天下の強国なり。王は、天下の賢主なり。今、乃ち意に西面して秦に事え、東藩と称し、帝宮を築き、冠帯を受け、春秋に祠らんとする有り。臣、竊かに大王の為に之を恥ず。臣聞く、越王勾践は、弊卒三千を戦わせて、夫差を干遂に擒にす。武王は卒三千、革車三百乗にて、紂を牧野に制す。豈に其れ卒の衆きならんや。誠に能く其の威を奮えばなり。
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『長短経』七雄略今、竊かに聞く、大王の卒、武士二十万、倉頭・奮撃二十万、厮徒十万、車六百乗、騎六千匹、と。此れ越王勾践・武王に過ぐること遠し。今、乃ち群臣の説を聴きて、臣として秦に事えんと欲す。夫れ秦に事うれば必ず地を割きて以て実を効す。故に兵未だ用いずして国已に虧く。夫れ人臣と為りて其の主の地を割きて以て外交し、偸みて一旦の功を取りて、其の後を顧みず、公家を破りて私門を成し、外は強秦の勢いを挟みて、以て内は其の王を刧かして以て地を割かんことを求む。願わくは大王、熟ら之を察せよ。周書に曰く『綿綿として絶えずんば、蔓蔓として奈何せん。毫釐にして伐らずんば、将に斧柯を用いんとす』と。前に慮り未だ定まらずして、後に大患有り。将た之を奈何せん。大王、誠に能く臣に聴かば、六国従親し、心を専らにし力を并せば、則ち必ず強秦の患い無からん。故に敝邑の趙王、臣をして愚計を効し、明約を奉ぜしむ。大王の之を詔するに在り」と。魏王曰く「謹みて教えを奉ぜん」と。
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『長短経』七雄略六国既に縦を合し、蘇秦、縦約の長と為る。北のかた趙に報ず。趙の粛侯、秦を封じて武安君と為す。乃ち縦約の書を秦に投ず。秦、敢えて兵を函谷に闚わざること十五年。後、張儀、秦の為に連衡す。〈秦、魏を攻めんと欲し、先ず韓を敗り、申差の軍、首を斬ること八万。諸侯震恐す。而して儀、乃ち来たりて魏王に説く。〉魏王に説きて曰く。〈秦の孝公の時、公孫鞅、魏を伐たんことを請いて曰く「魏は嶺阨の間に居り、西のかた安邑に都し、秦と河を界とす。而して独り山東の利を擅にす。利あれば則ち西のかた秦を侵し、病めば即ち東のかた地を収む。今、君の賢聖を以て、国は頼りて以て盛んなり。宜しく此の時に及びて魏を伐つべし。魏、秦を支えずんば、必ず東のかた徙らん。東のかた徙らば則ち山河の固きに拠り、東に向かいて以て諸侯を制せん。此れ帝業なり」と。是れ自り後、魏、果たして安邑を去り、都を大梁に徙す。〉
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『長短経』七雄略且つ夫れ韓・魏の秦を畏るる所以の者は、秦と境を接し界を壌するが為なり。兵出でて相い当たれば、十日を出でずして戦勝存亡の機決す。韓・魏、戦いて秦に勝てば、則ち兵は半ば折れ、四境守られず。戦いて勝たずんば、則ち国は已に危亡、其の後に随うなり。是の故に、韓・魏の秦と戦うを重しとして、之が臣と為るを軽んずる所以なり。今、秦の斉を攻むるは則ち然らず。韓・魏の地に倍き、衛の陽晋の道を過ぎ、亢父の険を径る。車は軌を方ぶるを得ず、騎は比び行くを得ず。百人、険を守れば、千人も敢えて過ぎざるなり。秦、深入せんと欲すと雖も、則ち狼顧して、韓・魏の其の後を議するを恐る。是の故に、恫疑虚喝し、驕矜して敢えて進まず。夫れ深く秦の斉を奈何ともする無きを料らずして、西面して之に事えんと欲するは、是れ群臣の計の過ちなり。今、秦に臣たるの名無くして、強国の実有り。故に願わくは大王、少しく意を留めて之を計れ」と。斉王曰く「善し」と。