長短経 / 覇図
越王曰、「朕新受命、人神未附、兵革屢興、恐士大夫解體於我。」守一曰、「陛下以累聖之資、繼二祖之業、雖夏人之思禹徳、復戴少康、漢室之戀劉宗、重尊光武。以今况古、彼有慙徳、况宻有可伐之勢者三、何則?始宻與翟譲同起烏合之衆、大業已就、宻乃殺譲而奪其位。士卒初喪其主、鬼神新失其祀。人神未附、一也。
新字:越王曰、「朕新受命、人神未附、兵革屡興、恐士大夫解体於我。」守一曰、「陛下以累聖之資、継二祖之業、雖夏人之思禹徳、復戴少康、漢室之恋劉宗、重尊光武。以今況古、彼有慚徳、況密有可伐之勢者三、何則?始密与翟譲同起烏合之衆、大業已就、密乃殺譲而奪其位。士卒初喪其主、鬼神新失其祀。人神未附、一也。
書き下し
越王曰く「朕、新たに命を受く。人神未だ附かず。兵革屢しば興り、恐らくは士大夫、我に解体せん」と。守一曰く「陛下、累聖の資を以て、二祖の業を継ぐ。夏人の禹の徳を思い、復た少康を戴くが如く、漢室の劉宗を恋い、重ねて光武を尊ぶが如し。今を以て古に況うれば、彼に慙徳有り。況んや密に伐つ可きの勢い三有るをや。何となれば、始め密と翟譲と同に烏合の衆を起こす。大業已に就るや、密、乃ち譲を殺して其の位を奪う。士卒は初めて其の主を喪い、鬼神は新たに其の祀を失う。人神未だ附かず。一なり。
現代語訳
越王は言った。「私は新たに天命を受けたばかりだ。人も神もまだ従っていない。戦乱がしばしば起こり、士大夫が私から離れるのを恐れる」。張守一は言った。「陛下は歴代の資を受け、二祖の業を継いでおられる。夏の人が禹の徳を思ってふたたび少康を戴いたようであり、漢室が劉氏を慕ってふたたび光武を尊んだようです。今を古に比べれば、あちらのほうが徳に劣る。まして李密には伐てる形勢が三つあります。なぜか。はじめ李密は翟譲とともに烏合の衆を起こした。大業が成ると、李密は翟譲を殺してその位を奪った。兵は主を失ったばかりで、鬼神は祀りを失ったばかりです。人も神もまだ従っていない。これが一つ目です。
解説

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