長短経 / 覇図
陳髙祖武皇帝姓陳氏、名霸先、吳興長城人也。梁武帝時為直閣將軍。侯景反、髙祖率所領與侯景大戰、侯景敗死、湘東王即位、授南徐州刺史、還鎮京口。西魏攻陷西臺、髙祖與王僧辯立晉安王、進帝位。司空僧辯又與齊氏和新納貞陽侯〔高祖嘆曰、「嗣主高皇之孫、元皇之子、竟有何辜、坐見廢黜、假立非次、此情可知也。〕髙祖以為不義、潜師襲王僧辯于石頭、克之、是夜縊僧辯、貞陽侯遜位、晉安王復立。徐嗣徽北引齊師、遣蕭軌等四十六將、濟江至莫府山、髙祖並破之。進帝位丞相、進爵為陳王。梁帝禪位於陳。
新字:陳高祖武皇帝姓陳氏、名覇先、呉興長城人也。梁武帝時為直閣将軍。侯景反、高祖率所領与侯景大戦、侯景敗死、湘東王即位、授南徐州刺史、還鎮京口。西魏攻陥西台、高祖与王僧弁立晋安王、進帝位。司空僧弁又与斉氏和新納貞陽侯〔高祖嘆曰、「嗣主高皇之孫、元皇之子、竟有何辜、坐見廃黜、仮立非次、此情可知也。〕高祖以為不義、潜師襲王僧弁于石頭、克之、是夜縊僧弁、貞陽侯遜位、晋安王復立。徐嗣徽北引斉師、遣蕭軌等四十六将、済江至莫府山、高祖並破之。進帝位丞相、進爵為陳王。梁帝禅位於陳。
書き下し
陳の高祖武皇帝、姓は陳氏、名は霸先、呉興長城の人なり。梁の武帝の時、直閣将軍と為る。侯景反す。高祖、領する所を率いて侯景と大いに戦う。侯景敗死す。湘東王即位し、南徐州刺史を授け、還りて京口に鎮せしむ。西魏、西台を攻陥す。高祖、王僧弁と晋安王を立て、帝位に進む。司空僧弁、又た斉氏と和し、新たに貞陽侯を納る。〈高祖嘆じて曰く「嗣主は高皇の孫、元皇の子なり。竟に何の辜有りて、坐ろに廃黜せらるるを見んや。假立して次に非ず。此の情、知る可きなり」と。〉高祖、以て不義と為し、師を潜めて王僧弁を石頭に襲い、之に克つ。是の夜、僧弁を縊る。貞陽侯、位を遜り、晋安王復た立つ。徐嗣徽、北のかた斉師を引き、蕭軌等四十六将を遣わし、江を済りて莫府山に至る。高祖、並びに之を破る。帝位を丞相に進め、爵を進めて陳王と為す。梁帝、位を陳に禅る。
現代語訳
陳の高祖武皇帝は姓を陳氏、名を霸先といい、呉興長城の人である。梁の武帝のとき直閣将軍となった。侯景が反した。高祖は手勢を率いて侯景と大いに戦い、侯景は敗れて死んだ。湘東王が即位し、南徐州刺史を授け、京口に鎮させた。西魏が西の朝廷を攻め落とした。高祖は王僧弁とともに晋安王を立て、帝位に進めた。司空の王僧弁はまた北斉と和を結び、新たに貞陽侯を迎え入れた。〈高祖は嘆いて言った。「後継の主は高帝の孫、元帝の子である。いったい何の罪があって、みすみす廃されるのを見るのか。仮に立てて順序を外している。この気持ちは察せられる」。〉高祖はこれを不義として、軍をひそめて王僧弁を石頭に襲い、勝った。その夜、王僧弁を絞め殺した。貞陽侯は位を退き、晋安王がまた立った。徐嗣徽は北の斉の軍を引き入れ、蕭軌ら四十六将を派遣し、長江を渡って莫府山に至った。高祖はこれらをみな破った。帝は位を丞相に進め、爵を進めて陳王とした。梁帝は位を陳に禅った。
解説

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