長短経 / 是非
《孝經》曰、“居家理、治可移于官。”〔非曰〕酈生落魄、無以為衣食業。陳蕃云、“大丈夫當掃天下、誰能掃一室?”〔是曰〕公孫𢎞曰、“力行近乎仁、好問近乎智、知恥近乎勇。知此三者、知所自理、知所以自理、然後知所以理人。天下未有不能自理而能理人者也。此百代不易之道。”〔非曰〕
新字:《孝経》曰、“居家理、治可移于官。”〔非曰〕酈生落魄、無以為衣食業。陳蕃云、“大丈夫当掃天下、誰能掃一室?”〔是曰〕公孫弘曰、“力行近乎仁、好問近乎智、知恥近乎勇。知此三者、知所自理、知所以自理、然後知所以理人。天下未有不能自理而能理人者也。此百代不易之道。”〔非曰〕
書き下し
〔是に曰く〕孝経に曰く「家に居りて理まれば、治は官に移す可し」と。〔非に曰く〕酈生は落魄して、以て衣食の業と為す無し。陳蕃云う「大丈夫は当に天下を掃うべし。誰か能く一室を掃わん」と。〔是に曰く〕公孫弘曰く「力め行うは仁に近く、問を好むは智に近く、恥を知るは勇に近し。此の三者を知らば、自ら理むる所を知る。自ら理むる所以を知りて、然る後に人を理むる所以を知る。天下、未だ自ら理むる能わずして能く人を理むる者有らざるなり。此れ百代不易の道なり」と。〔非に曰く〕
現代語訳
〔是の側。〕孝経にこうある。「家にあって治まっていれば、その治め方は官職に移せる」。〔非の側。〕酈食其は落ちぶれて、衣食の生業とするものがなかった。陳蕃はこう言った。「大丈夫たる者は天下を掃くべきだ。誰が一部屋を掃くものか」。〔是の側。〕公孫弘はこう言った。「努めて行うことは仁に近く、問うことを好むのは智に近く、恥を知るのは勇に近い。この三つを知れば、自分を治める道が分かる。自分を治める道を知って、はじめて人を治める道を知る。天下に、自分を治められずに人を治められた者はいない。これが百代変わらない道である」。
解説
身近を整えてから大きなことへ、という順序と、身近を飛ばして大きなことへ、という構え。陳蕃の一室を掃かずして天下を掃くという言葉は、若い日の気概として有名ですが、諌める側の言葉として引かれることも多い。趙蕤はこれを非の側、つまり順序を否定する側に置きました。どちらが正しいかではなく、自分がいまどちらの言い訳をしているかが問題です。
この章句が説くこと
是非孝経陳蕃一室を掃う公孫弘順序
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