長短経 / 臣行
後漢陳蕃上疏薦徐穉袁閎、韋著三人。帝問蕃曰、“三人誰為先後?”蕃曰、“閎生公族、聞道漸訓。著長於三輔、禮義之俗、所謂不扶自直、不鏤自彫至於穉者、爰自江南卑薄之域、而角立傑出、宜當為先。”或曰、“謝安石為相、可與何人為比?”虞南曰、“昔顧雍封侯之日、而家人不知、前代稱其質重、莫以為偶。
新字:後漢陳蕃上疏薦徐穉袁閎、韋著三人。帝問蕃曰、“三人誰為先後?”蕃曰、“閎生公族、聞道漸訓。著長於三輔、礼義之俗、所謂不扶自直、不鏤自彫至於穉者、爰自江南卑薄之域、而角立傑出、宜当為先。”或曰、“謝安石為相、可与何人為比?”虞南曰、“昔顧雍封侯之日、而家人不知、前代称其質重、莫以為偶。
書き下し
後漢の陳蕃、上疏して徐穉・袁閎・韋著の三人を薦む。帝、蕃に問いて曰く「三人、誰をか先後と為す」と。蕃曰く「閎は公族に生まれ、道を聞くこと漸く訓えらる。著は三輔に長ず、礼義の俗なり。所謂扶けずして自ら直く、鏤らずして自ら彫るなり。穉なる者に至りては、爰に江南卑薄の域よりして、角立傑出す。宜しく当に先と為すべし」と。或るひと曰く「謝安石の相と為る、何人と与に比を為す可きか」と。
現代語訳
後漢の陳蕃が上奏して徐穉・袁閎・韋著の三人を推薦した。帝が陳蕃に尋ねた。「三人のうち、誰が先で誰が後か」。陳蕃は言った。「袁閎は公卿の家に生まれ、道を聞くことをだんだんと教えられました。韋著は三輔(都の周辺)で育ち、礼義の風俗のなかにいました。いわゆる支えなくても自然にまっすぐで、彫らなくても自然に模様がある、というものです。徐穉に至っては、江南の低く薄い地域から、角のように立って傑出しました。先にすべきです」。ある人が言った。「謝安が宰相となったのは、どんな人物に比べられますか」。
解説
推薦の順位を、育った環境の差で決めた話です。良い家に生まれ良い風土で育った二人は、支えなくてもまっすぐになる。恵まれない土地から一人で立ち上がった徐穉のほうを上に置く。同じ到達点なら、遠くから来た人を高く評価する。この基準は前の篇から一貫していて、長短経の人物評価の背骨がよく見えます。そして推薦する側の言葉づかいも見どころです。三人とも褒めたうえで、褒め方を変えて順位を示す。誰も貶めずに序列をつけています。
この章句が説くこと
臣行陳蕃徐穉推薦環境出発点
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