長短経 / 臣行
或曰、“商鞅起徒步、干孝公、挾三術之略、吞六國之縱、使秦業帝、可為霸者之佐乎?”劉向曰、“夫商君、内急耕戰之業、外重戰伐之賞、不阿貴寵、不偏疎逺。雖《書》云、『無偏無黨』、《詩》云、『周道如砥、其直如矢』、《司馬法》之厲戎士、周后稷之勸農業、無以易此。此所以并諸侯也。
新字:或曰、“商鞅起徒歩、干孝公、挟三術之略、呑六国之縦、使秦業帝、可為覇者之佐乎?”劉向曰、“夫商君、内急耕戦之業、外重戦伐之賞、不阿貴寵、不偏疎遠。雖《書》云、『無偏無党』、《詩》云、『周道如砥、其直如矢』、《司馬法》之厲戎士、周后稷之勧農業、無以易此。此所以并諸侯也。
書き下し
或るひと曰く「商鞅は徒歩より起こり、孝公に干め、三術の略を挟み、六国の縦を呑み、秦をして帝業ならしむ。覇者の佐と為す可きか」と。劉向曰く「夫れ商君は、内は耕戦の業を急にし、外は戦伐の賞を重んず。貴寵に阿らず、疎遠に偏らず。書に『偏無く党無し』と云い、詩に『周道は砥の如く、其の直きこと矢の如し』と云い、司馬法の戎士を厲まし、周の后稷の農業を勧むと雖も、以て此に易うる無し。此れ諸侯を并す所以なり。
現代語訳
ある人が言った。「商鞅は徒歩の身から起こり、孝公に取り入り、三つの術の計略を抱え、六国の合従を呑み込み、秦を帝業に導きました。覇者の補佐と言えますか」。劉向は言った。「商君は、内では耕作と戦闘の事業を急がせ、外では戦いの賞を重くした。身分の高い寵臣に迎合せず、縁の遠い者に偏ることもなかった。書経に『偏りなく党なし』とあり、詩経に『周の道は砥石のように平らで、そのまっすぐなことは矢のようだ』とあり、司馬法が兵士を励まし、周の后稷が農業を勧めたといっても、これに代えるものはない。これが諸侯を併合できた理由である。
解説

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『春秋左氏伝』昭公二十八年 唯だ善の在る所之に縣を與ふと雖も、亦た可ならずや。昔武王商に克ち、光(おほ)いに天下を有つ。其の兄弟の國なる者十有五人、姬姓の國なる者四十人、皆親を舉ぐるなり。夫れ舉ぐるに他無し、唯だ善の在る所なり、親疏一なり。詩に曰く、『唯れ此の文王、帝其の心を度(はか)り、其の德音を莫(さだ)む。其の德克く明らかに、克く明らかに克く類し、克く長じ克く君たり。此の大國に王として、克く順ひ克く比す。文王に比(およ)びて、其の德悔い靡し。既に帝の祉を受け、孫子に施す』と。心能く義を制するを度と曰ひ、德正しくして應和するを莫と曰ひ、四方に照臨するを明と曰ひ、勤施して私無きを類と曰ひ、教誨して倦まざるを長と曰ひ、賞慶刑威あるを君と曰ひ、慈和にして遍く服するを順と曰ひ、善を擇びて之に從ふを比と曰ひ、天地を經緯するを文と曰ふ。九德愆(あやま)たず、事を作して悔い無し。故に天祿を襲(う)け、子孫之に賴る。主の舉ぐるや、文德に近し。及ぶ所其れ遠からんかな」と。賈辛將に其の縣に適かんとし、魏子に見ゆ。魏子曰く、「辛來たれ。昔叔向鄭に適く。
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『長短経』息弁此に由りて之を言えば、夫れ身を立て政に従うには、皆本有り。理乱能否には、皆迹有り。若し其の本行を操りて、事迹を以て之を縄さば、譬えば水の寒き、火の熱きが如く、則ち善悪逃るる所無し。
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