長短経 / 君徳
〔議曰、賈生云、「昔成王幼、在襁褓之中、召公為太保、周公為太傅、太公為太師。保、保其身體、傅、傅之徳義、師、導之教訓。此三公之職也。又置三少、曰少傅、少保、少師、是與太子晏者也。乃孩抱有識、三公、三少固明孝、仁、義、禮以導習之、逐去邪人、不使見惡行、選天下之端士、孝悌、博聞、有道術者以翼衛之、使與太子居處。故太子乃生見正事、聞正言、行正道。左右前後、皆正人也。夫習與正人居、不能無正、猶生長齊地、不能不齊言也、習與不正人居、猶生長楚地、不能不楚言也。
新字:〔議曰、賈生云、「昔成王幼、在襁褓之中、召公為太保、周公為太傅、太公為太師。保、保其身体、傅、傅之徳義、師、導之教訓。此三公之職也。又置三少、曰少傅、少保、少師、是与太子晏者也。乃孩抱有識、三公、三少固明孝、仁、義、礼以導習之、逐去邪人、不使見悪行、選天下之端士、孝悌、博聞、有道術者以翼衛之、使与太子居処。故太子乃生見正事、聞正言、行正道。左右前後、皆正人也。夫習与正人居、不能無正、猶生長斉地、不能不斉言也、習与不正人居、猶生長楚地、不能不楚言也。
書き下し
〔議に曰く、賈生云う「昔、成王幼くして襁褓の中に在るとき、召公は太保と為り、周公は太傅と為り、太公は太師と為る。保は其の身体を保んじ、傅は之に徳義を傅え、師は之を教訓に導く。此れ三公の職なり。又た三少を置く。少傅・少保・少師と曰う。是れ太子と晏する者なり。乃ち孩抱にして識有れば、三公・三少は固より孝・仁・義・礼を明らかにして以て之を導き習わしむ。逐うて邪人を去り、悪行を見しめず。天下の端士・孝悌・博聞・道術有る者を選びて以て之を翼衛し、太子と居処せしむ。故に太子は乃ち生まれて正事を見、正言を聞き、正道を行う。左右前後、皆な正人なり。夫れ習いて正人と居らば、正しからざる能わず。猶お斉の地に生長すれば、斉言せざる能わざるがごとし。習いて不正の人と居らば、猶お楚の地に生長すれば、楚言せざる能わざるがごとし。
現代語訳
〔議していう。賈誼はこう言った。「昔、成王がまだおむつのなかにいたとき、召公が太保となり、周公が太傅となり、太公望が太師となった。保はその身体を守り、傅は徳と義を伝え、師は教えに導く。これが三公の職である。さらに三少を置いた。少傅・少保・少師という。これは太子と日常をともにする者である。抱かれている時期にものが分かりはじめれば、三公と三少はもとより孝・仁・義・礼を明らかにして導き習わせる。よこしまな人を追い払い、悪い行いを見せない。天下の端正な士、親孝行な者、博識な者、道術のある者を選んでこれを守らせ、太子と一緒に住まわせる。だから太子は生まれて正しい事を見、正しい言葉を聞き、正しい道を行う。左右前後、みな正しい人である。習慣として正しい人と一緒にいれば、正しくならずにはいられない。斉の地で生まれ育てば斉の言葉を話さずにはいられないのと同じである。習慣として正しくない人と一緒にいれば、楚の地で生まれ育てば楚の言葉を話さずにはいられないのと同じである。
解説

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論語・衛霊公篇子貢、仁を為すを問う。子曰く、「工、其の事を善くせんと欲すれば、必ず先ず其の器を利くす。是の邦に居るや、其の大夫の賢者に事え、其の士の仁者を友とす。」
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『新書』保傅鄙諺に曰く、「習わざれば吏と為り、而して己事を視よ」と。又曰く、「前車覆れば後車戒む」と。夫れ殷周の長久なる所以は、其の己事知る可きなり。然れども従う能わざるは、是れ聖智に法らざるなり。秦の亟かに絶えし所以は、其の軌迹見る可きなり。然れども避けざるは、是れ後車又覆るなり。夫れ存亡の反、治乱の機、其の要は是に在り。天下の命、太子に縣かる。太子の善は、蚤く諭教し左右を選ぶに在り。心未だ濫れざるに先ず諭教すれば、則ち化成り易きなり。夫れ道術に開け、義理の指を知るは、則ち教えの功なり。若し其の服習積貫は、則ち左右のみ。夫れ胡越の人、生まれて声を同じくし、嗜慾異ならず、其の長じて俗を成すに及べば、数訳を累ぬるも相通ずる能わず、行いに死すと雖も相為さざる有る者は、則ち教習の然らしむるなり。臣故に曰く、「左右を選び、蚤く諭教するは最も急なり」と。夫れ教え得て左右正しければ、則ち太子正し、太子正しくして天下定まる。書に曰く、「一人慶有れば、兆民之に頼る」と。此れ時務なり。
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『新書』保傅古の王者は、太子初めて生まるれば、固より挙ぐるに礼を以てし、士をして之を負わしめ、有司斉粛し端冕して、之を南郊に見え、天に見ゆるなり。闕を過ぐれば則ち下り、廟を過ぐれば則ち趨る、孝子の道なり。故に赤子たりし自りして教え固より以て行わる。昔者周の成王幼くして繈褓の中に在り、召公は太保たり、周公は太傅たり、太公は太師たり。保は、其の身体を保つ。傅は、之に徳義を傅く。師は、之に教訓を道く。三公の職なり。是に於いて為に三少を置く、皆上大夫なり、少保・少傅・少師と曰い、是れ太子と燕する者なり。故に咳㖷にして、三公三少固より孝仁礼義を明らかにし、道を以て之を習わしめ、邪人を逐去し、悪行を見せしめず。是に於いて皆天下の端士、孝弟博聞にして道術有る者を選び、以て之を衛翼し、太子と居処出入を与にせしむ。故に太子初めて生まれて正事を見、正言を聞き、正道を行い、左右前後皆正人なり。習いて正人と之に居れば、正無きこと能わず、猶お楚に生長すれば、楚言せざること能わざるがごときなり。故に其の嗜む所を択ぶに、必ず先ず業を受けて、乃ち之を嘗むるを得、其の楽しむ所を択ぶに、必ず先ず習い有りて、乃ち之を為すを得しむ。孔子曰く、「少くして成るは天性の若く、習い貫れば自然の如し」と。
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孟子・滕文公章句下孟子、戴不勝に謂いて曰く、「子は子の王の善ならんことを欲するか。我明らかに子に告げん。此に楚の大夫有らんに、其の子の齊語せんことを欲すれば、則ち齊人をして諸に傅たらしめんか。楚人をして諸に傅たらしめんか。」曰く、「齊人をして之に傅たらしめん。」曰く、「一齊人之に傅たるも、衆楚人之を咻せば、雖日に撻(むちうつ)ちて其の齊たらんことを求むと雖も、得可からず。引いて之を莊嶽の間に置くこと數年ならば、日に撻ちて其の楚たらんことを求むと雖も、亦た得可からず。子、薛居州を善士と謂い、之をして王の所に居らしむ。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州ならば、王は誰と與にか不善を為さん。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州に非ざれば、王は誰と與にか善を為さん。一薛居州、獨り宋王を如何せん。」 <語釈> ○「咻」、音はキュウ、義はかまびすしくすること。○「莊嶽」、顧炎武云う、莊は是れ街の名、嶽は是れ里の名。
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史記 三王世家会々昭帝崩じ、宣帝初めて立つ、恩に縁りて義を行ひ、本始元年中を以て、漢の地を裂き、尽く以て広陵王胥の四子を封ず。一子は朝陽侯と為り、一子は平曲侯と為り、一子は南利侯と為り、最も愛する少子弘は、立てて以て高密王と為す。其の後胥果たして威福を作し、楚王の使者に通ず。楚王宣言して曰く、「我が先の元王は、高帝の少弟なり、三十二城を封ぜらる。今地邑益々少なし、我広陵王と共に兵を発せんと欲すと云ふ。広陵王を立てて上と為し、我復た楚の三十二城に王たること、元王の時の如くせん」と。事発覚し、公卿有司罰誅を行はんことを請ふ。天子骨肉の故を以て、法を胥に致すに忍びず、詔書を下して広陵王を治むる無からしめ、独り首悪の楚王を誅す。伝に曰く「蓬麻中に生ずれば、扶けずして自ら直し。白沙泥中に在れば、之と皆黒し」とは、土地の教化之をして然らしむるなり。其の後胥復た祝詛して謀反し、自殺し、国除かる。燕の土は墝埆にして、北は匈奴に迫り、其の人民勇にして慮少なし、故に之を誡めて曰く「葷粥氏は孝行有る無くして禽獣の心あり、以て窃盗して辺民を侵犯す。朕将軍に詔して往きて其の罪を征せしむ、万夫の長、千夫の長、三十有二君皆来たり、旗を降し師に奔る。葷粥域を徙して遠く処り、北州以て安し」と。「若の心を悉くし、怨みを作す無かれ」とは、俗に従ひて以て怨望せしむる勿かれとなり。「徳を俷る無かれ」とは、王をして徳に背かしむる勿かれとなり。「備へを廃する無かれ」とは、武備を乏しくする無く、常に匈奴に備へよとなり。「教へられし士に非ざれば徴に従ふを得ず」とは、言ふこころは礼義に習ふに非ざれば側に在るを得ずとなり。会々武帝年老い長じ、而して太子不幸にして薨じ、未だ立つる所有らず、而して旦使をして来たりて上書せしめ、身入りて長安に宿衛せんことを請ふ。孝武其の書を見、地を撃ち、怒りて曰く、「子を生まば当に之を斉魯礼義の郷に置くべし、乃ち之を燕趙に置く、果たして争ふ心有り、譲らざるの端見はる」と。