長短経 / 君徳
〔議曰、子言衛靈公之無道、康子曰、「夫如是、奚為不喪?」孔子曰、「仲叔圉治賔客、祝駝治宗廟、王孫賈治軍旅。夫如是、奚其喪?」此言委任有徳之美也。田單相齊、過淄水、有老人涉淄而寒。田單解裘而衣之。襄王惡之、曰、「田單之厚施、將欲以取我國乎?不早圖、恐後之。」此言委任有徳之惡也。故齊侯惡陳氏厚徳、晏子謂齊侯曰、「在禮、家施不及國、大夫不收公利、可以止之。」齊襄惡田單厚施、貫珠者謂襄王曰、「王不如嘉單之善、令曰、『寡人憂人之饑也、單收而食之、寡人憂人之寒也、單解裘而衣之。稱寡人意。』單有是善而王嘉之、善單之善、亦王之善也。」
新字:〔議曰、子言衛霊公之無道、康子曰、「夫如是、奚為不喪?」孔子曰、「仲叔圉治賓客、祝駝治宗廟、王孫賈治軍旅。夫如是、奚其喪?」此言委任有徳之美也。田単相斉、過淄水、有老人渉淄而寒。田単解裘而衣之。襄王悪之、曰、「田単之厚施、将欲以取我国乎?不早図、恐後之。」此言委任有徳之悪也。故斉侯悪陳氏厚徳、晏子謂斉侯曰、「在礼、家施不及国、大夫不収公利、可以止之。」斉襄悪田単厚施、貫珠者謂襄王曰、「王不如嘉単之善、令曰、『寡人憂人之饑也、単収而食之、寡人憂人之寒也、単解裘而衣之。称寡人意。』単有是善而王嘉之、善単之善、亦王之善也。」
書き下し
〔議に曰く、子、衛の霊公の無道を言う。康子曰く「夫れ是くの如くんば、奚為れぞ喪びざる」と。孔子曰く「仲叔圉は賓客を治め、祝駝は宗廟を治め、王孫賈は軍旅を治む。夫れ是くの如くんば、奚ぞ其れ喪びん」と。此れ有徳に委任するの美を言うなり。田単、斉に相たり。淄水を過ぐ。老人有り、淄を渉りて寒ゆ。田単、裘を解きて之に衣す。襄王之を悪みて曰く「田単の厚施は、将に以て我が国を取らんと欲するか。早く図らずんば、恐らくは之に後れん」と。此れ有徳に委任するの悪を言うなり。故に斉侯、陳氏の厚徳を悪む。晏子、斉侯に謂いて曰く「礼に在り、家施は国に及ばず、大夫は公利を収めず。以て之を止む可し」と。斉の襄、田単の厚施を悪む。貫珠なる者、襄王に謂いて曰く「王は単の善を嘉するに如かず。令して曰く『寡人は人の飢うるを憂うるなり。単、収めて之を食わしむ。寡人は人の寒ゆるを憂うるなり。単、裘を解きて之に衣す。寡人の意に称う』と。単に是の善有りて王之を嘉す。単の善を善しとするは、亦た王の善なり」と。
現代語訳
〔議していう。孔子が衛の霊公の無道を語った。季康子が言った。「それならばどうして滅びないのですか」。孔子は言った。「仲叔圉が外交をつかさどり、祝駝が宗廟をつかさどり、王孫賈が軍事をつかさどっている。それならどうして滅びよう」。これは徳ある者に委任することの美点を言っている。田単が斉の宰相であった。淄水を通りかかった。老人が淄水を渡って凍えていた。田単は毛皮を脱いでこれを着せた。襄王はこれを憎んで言った。「田単の厚い施しは、私の国を取ろうというのか。早く手を打たなければ、後れを取るだろう」。これは徳ある者に委任することの弊害を言っている。だから斉侯は陳氏の厚い徳を憎んだ。晏子は斉侯に言った。「礼にこうあります。家の施しは国に及ばず、大夫は公の利を収めない。これによって止められます」。斉の襄王は田単の厚い施しを憎んだ。貫珠という者が襄王に言った。「王は田単の善を褒めるに越したことはありません。命令を出してこう言うのです。『私は人が飢えるのを憂えている。田単が集めて食べさせた。私は人が凍えるのを憂えている。田単が毛皮を脱いで着せた。私の意にかなっている』。田単にこの善があって王がこれを褒める。田単の善を善しとするのは、王の善でもあるのです」。
解説

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『学問のすゝめ』十七編・人望論・人に当てにせらるる人物十人の見るところ、百人の指すところにて、「何某は慥かなる人なり、たのもしき人物なり、この始末を託しても必ず間違いなからん、この仕事を任しても必ず成就することならん」と、あらかじめその人柄を当てにして世上一般より望みをかけらるる人を称して、人望を得る人物という。およそ人間世界に人望の大小軽重はあれども、かりそめにも人に当てにせらるる人にあらざれば、なんの用にも立たぬものなり。その小なるを言えば、十銭の銭を持たせて町使いに遣る者も、十銭だけの人望ありて、十銭だけは人に当てにせらるる人物なり。十銭より一円、一円より千円万円、ついには幾百万円の元金を集めたる銀行の支配人となり、または一府一省の長官となりて、ただに金銭を預かるのみならず、人民の便不便を預かり、その貧富を預かり、その栄辱をも預かることあるものなれば、かかる大任に当たる者は、必ず平生より人望を得て、人に当てにせらるる人にあらざれば、とても事をなすことは叶い難し。
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史記 晋世家子圉遂に亡げて晋に帰る。十四年九月、恵公卒し、太子圉立つ。是を懐公と為す。子圉の亡ぐるや、秦之を怨み、乃ち公子重耳を求め、之を内れんと欲す。子圉の立つや、秦の伐たんことを畏る。乃ち国中の諸々の重耳に従ひて亡げし者に令して与に期し、期尽きて到らざる者は尽く其の家を滅ぼさんとす。狐突の子毛及び偃重耳に従ひて秦に在り。召すを肯ぜず。懐公怒り、狐突を囚ふ。突曰く、「臣の子重耳に事ふること年数有り。今之を召すは、是れ之に君に反くことを教ふるなり。何を以て之を教へん」と。懐公卒に狐突を殺す。秦の繆公乃ち兵を発して送りて重耳を内れ、人をして欒・郤の党に告げて内応を為さしめ、懐公を高梁に殺し、重耳を入る。重耳立つ。是を文公と為す。晋の文公重耳は、晋の献公の子なり。少きより士を好み、年十七にして、賢士五人有り。趙衰と曰ひ、狐偃咎犯、文公の舅なり、賈佗、先軫、魏武子なり。献公の太子為りし時より、重耳固より已に成人たり。献公即位するとき、重耳年二十一なり。献公の十三年、驪姫の故を以て、重耳蒲城に備へて秦を守る。献公の二十一年、献公太子申生を殺す。驪姫之を讒す。恐れて、献公に辞せずして蒲城を守る。献公の二十二年、献公宦者履鞮をして趣(すみ)やかに重耳を殺さしむ。重耳垣を踰ゆ。宦者逐ひて其の衣袪を斬る。重耳遂に狄に奔る。狄は、其の母の国なり。是の時重耳年四十三なり。此の五士に従ひ、其の余の名あらざる者数十人、狄に至る。狄咎如を伐ち、二女を得たり。長女を以て重耳に妻し、伯鯈・叔劉を生む。少女を以て趙衰に妻し、盾を生む。狄に居ること五歳にして晋の献公卒す。里克已に奚斉・悼子を殺し、乃ち人をして迎へしめ、重耳を立てんと欲す。重耳殺されんことを畏れ、因りて固く謝し、敢て入らず。已にして晋更に其の弟夷吾を迎へて之を立つ。是を恵公と為す。
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李衛公問対・卷中文は能く衆を附け、武は能く敵を威す。
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『春秋左氏伝』文公十六年 蕩意諸、君に殉ず宋の公子鮑國人に禮す。宋饑う、其の粟を竭くして之に貸す。年七十より以上は、饋詒せざる無し。時に羞珍異を加ふ。日として六卿の門に數々せざる無し。國の材人、事へざる無し。親は桓より以下、恤れまざる無し。公子鮑美にして豔なり、襄夫人之に通ぜんと欲す、而も可(き)かず。夫人之が施しを助く。昭公無道なり、國人公子鮑を奉じて以って夫人に因る。是に於いて華元右師と為り、公孫友左師と為り、華耦司馬と為り、鱗鱹司徒と為り、蕩意諸司城と為り、公子朝司寇と為る。初め、司城蕩卒す。公孫壽司城を辭し、意諸をして之と為さしめんことを請ふ。既にして人に告げて曰く、「君無道なり、吾が官近し、及ばんことを懼る。官を棄つれば則ち族庇ふ所無し。子は、身の貳なり。姑く死を紓(ゆる)べん。子を亡ふと雖も、猶ほ族を亡はず」と。既にして、夫人將に公をして孟諸に田せしめて之を殺さんとす。公之を知り、盡く寶を以って行く。蕩意諸曰く、「盍ぞ諸侯に適かざる」と。公曰く、「其の大夫に能はず、君祖母に至り、以って國人に及ぶ。諸侯誰か我を納れん。且つ既に人の君と為りて、又人の臣と為るは、死するに如かず」と。盡く其の寶を以って左右に賜ひ、以って行らしむ。夫人司城をして公を去らしめんとす。對へて曰く、「之に臣として其の難を逃れば、後の君を若何せん」と。冬、十一月、甲寅、宋の昭公將に孟諸に田せんとして、未だ至らず。夫人王姬帥甸をして攻めて之を殺さしむ。蕩意諸之に死す。書に曰く、「宋人其の君杵臼を弒す」と、君無道なればなり。文公位に即き、母弟須をして司城と為さしむ。華耦卒して、蕩虺をして司馬と為さしむ。
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