長短経 / 君徳
夏少康、漢光武皆中興之君、孰者為最?虞南曰、「此二帝皆興復先緒、光啟王業、其名則同、其實則異。何者?光武之世、藉思亂之民、誅殘賊之莽、取亂侮亡、為功差易。至如少康、則夏氏之滅已二代矣〔羿及寒浞。〕藐然遺體、身在胎孕、母氏逃亡、生於他國。不及過庭之訓、曾無强近之親、遭離亂之難、庇身非所、而能﨑嶇于喪亂之間、遂成配天之業、中興之君、斯為稱首。」
新字:夏少康、漢光武皆中興之君、孰者為最?虞南曰、「此二帝皆興復先緒、光啓王業、其名則同、其実則異。何者?光武之世、藉思乱之民、誅残賊之莽、取乱侮亡、為功差易。至如少康、則夏氏之滅已二代矣〔羿及寒浞。〕藐然遺体、身在胎孕、母氏逃亡、生於他国。不及過庭之訓、曽無強近之親、遭離乱之難、庇身非所、而能﨑嶇于喪乱之間、遂成配天之業、中興之君、斯為称首。」
書き下し
夏の少康・漢の光武は皆な中興の君なり。孰れをか最と為さん。虞南曰く「此の二帝は皆な先緒を興復し、王業を光啓す。其の名は則ち同じくして、其の実は則ち異なる。何となれば、光武の世は、乱を思うの民を藉り、残賊の莽を誅す。乱を取り亡を侮り、功を為すこと差や易し。少康の如きに至りては、則ち夏氏の滅ぶること已に二代なり。〔羿及び寒浞。〕藐然たる遺体、身は胎孕に在り、母氏は逃亡して、他国に生まる。過庭の訓に及ばず、曾て強近の親無く、離乱の難に遭い、身を庇うに所に非ず。而して能く喪乱の間に崎嶇し、遂に配天の業を成す。中興の君、斯れ称首と為す」と。
現代語訳
夏の少康と漢の光武帝は、どちらも中興の君である。どちらが最上だろうか。虞世南は言った。「この二人の帝はともに先代の事業を復興し、王業を輝かせた。その名は同じだが、実際は異なる。なぜか。光武帝の世は、乱を嫌う民の力を借り、残虐な王莽を誅した。乱れた国から取り、滅びかけた国を侮ったので、功を成すのは比較的たやすかった。少康に至っては、夏の一族が滅びてすでに二代が経っていた。〔羿と寒浞の代である。〕かすかに遺された体は、まだ母の胎内にあり、母は逃亡して他国で生まれた。父の庭先での教えを受けることもなく、頼れる近親もなく、離散と戦乱の難に遭い、身を寄せる場所もなかった。それでも戦乱のなかを苦労してくぐり抜け、ついに天に配される事業を成しとげた。中興の君として、これを第一とする」。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
言志四録・言志録 第五十九条 患難は天の吾が才を老す凡そ遭ふ所の患難変故、屈辱讒謗、払逆の事は、皆天の吾が才を老せしむる所以にして、砥礪切磋の地に非ざるは莫し。君子は当に之に処する所以を慮るべし。徒に之を免れんと欲するは不可なり。
-
『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石真の逆境とはいかなる場合をいうか、実例に徴して一応の説明を試みたいと思う。およそ世の中は順調を保って平穏無事にゆくのが普通であるべき筈ではあるが、水に波動のあるごとく、空中に風の起こるがごとく、平静なる国家社会すらも、時としては革命とか変乱とかいうことが起こって来ないとも断言されない。そしてこれを平静無事な時に比すれば明らかに逆であるが、人もまたこのごとき変乱の時代に生まれ合い、心ならずもその渦中に巻き込まれるは不幸の者で、こういうのが真の逆境に立つというのではあるまいか。果たしてしからば余もまた逆境に処して来た一人である。余は維新前後世の中が最も騒々しかった時代に生まれ合い、さまざまの変化に遭遇して今日に及んだ。顧みるに維新の際におけるがごとき世の変化に際しては、いかに智能ある者でも、また勉強家でも、意外な逆境に立ったり、あるいは順境に向かったりしないとは言われない。
-
『講孟余話』序然れども富貴安楽は順境なり、貧賤艱難は逆境なり。境順なる者は怠り易く、境逆なる者は励み易し。怠れば則ち失ひ、励めば則ち得る、是れ人の常なり。吾罪を獲て獄に下り、吉村五明・河野子忠・富永有隣の三子を得て、相共に書を読み道を講じ、往復益々喜ぶ。曰く、吾と諸君と其の境逆なり、以て励むこと有りて得べきなりと。遂に孟子の書を抱きて講究礱磨し、以て其の所謂道なる者を求めんと欲す。司獄福川氏も亦来り会して善と称す。是に於て悠然として楽しみ、莞然として笑ひ、復た圜牆の苦たるを知らざるなり。遂に其の得る所を録し、号して講孟劄記と為す。夫れ孟子の説は固より弁を待たず。然れども之れを喜びて足らず、乃ち之れを口に誦し、之れを誦して足らず、乃ち之れを紙に筆す、亦情の已む能はざる所なれば、則ち劄記の作、其れ廃すべけんや。抑々聞く、往年獄中に政無く、酒に酗ひ気を使ひ、喧豗紛争して、絶えて人道無しと。今公即位し、庶政更張して、延いて獄中に及び、百弊日に改まり、衆美並び興る。蓋し司獄も亦与りて力有り。今乃ち諸君と悠悠として学を講じ、以て其の幽囚を楽しむことを得る者、寧ぞ対揚する所以を思はざるべけんや。安政乙卯秋日、二十一回藤寅、諸を野山獄北房第一舎に書す。
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 長男の死を転じる○四年八月四日、元就の嫡子大膳太夫隆元頓死す。家臣の人々、元就之を聞かば、定めて愁傷甚しかるべしと、心許なく思ひ居たりし所に、案の外哀感の色なく、元春、隆景、隆家等へ、隆元頓死是非に及ばざることとなり、是は偏に尼子家滅亡の基なり、我及び各の義は言ふに及ばず、家中の下々に至るまで、隆元が弔には、尼子退治の心掛尋常にはあるまじ、然らば此勢を以て尼子を亡さんこと掌の中なりと、快よけに言ひければ、上下愁眉を開き、何れも勇み合たり。爰に於て元就自ら將として白鹿の城を攻め竟に之を拔けり、其軍機の沮するを慮てなり。
-
『韓非子』存韓第二夫れ韓は小國なり、而して以て天下の四撃に應ず。主辱められ臣苦しみ、上下相い與に憂いを同じうすること久し。
-
『酔古堂剣掃』集醒・惟だ折磨して乃ち吾輩を見る小人の豪傑を顛倒するを恠しむも、慣れて顛倒するは方に小人たるを知らず。吾輩の世の折磨を受くるを惜しむも、惟だ折磨して乃ち吾輩を見るを知らず。