長短経 / 君徳
昔周成以孺子繼統、而有管、蔡四國之變、漢昭幼年即位、亦有燕、蓋、上官逆亂之謀。成王不疑周公、漢昭委任霍光、二主孰為先後?魏文帝曰、「周成王體聖考之休氣、稟賢妣之胎誨、周、召為保傅、吕望為太師。口能言則行人稱辭、足能履則相者導儀。目厭威容之美、耳飽徳義之聲、所謂沉漬𤣥流、而沐浴清風矣。猶有咎悔、聆二叔之謗、使周公東遷、皇天赫怒、顯明厥咎、然後乃寤。不亮周公之聖徳、而信〈金縢之教言、豈不暗哉?
新字:昔周成以孺子継統、而有管、蔡四国之変、漢昭幼年即位、亦有燕、蓋、上官逆乱之謀。成王不疑周公、漢昭委任霍光、二主孰為先後?魏文帝曰、「周成王体聖考之休気、稟賢妣之胎誨、周、召為保傅、呂望為太師。口能言則行人称辞、足能履則相者導儀。目厭威容之美、耳飽徳義之声、所謂沈漬玄流、而沐浴清風矣。猶有咎悔、聆二叔之謗、使周公東遷、皇天赫怒、顕明厥咎、然後乃寤。不亮周公之聖徳、而信〈金縢之教言、豈不暗哉?
書き下し
昔、周の成は孺子を以て統を継ぎ、而して管・蔡四国の変有り。漢の昭は幼年にして即位し、亦た燕・蓋・上官の逆乱の謀有り。成王は周公を疑わず、漢昭は霍光に委任す。二主孰れをか先後と為さん。魏の文帝曰く「周の成王は聖考の休気を体し、賢妣の胎誨を稟く。周・召は保傅と為り、呂望は太師と為る。口、能く言えば則ち行人、辞を称し、足、能く履めば則ち相者、儀を導く。目は威容の美に厭き、耳は徳義の声に飽く。所謂玄流に沈漬して、清風に沐浴するなり。猶お咎悔有り、二叔の謗を聆きて、周公をして東遷せしむ。皇天赫怒し、厥の咎を顕明にして、然る後に乃ち寤む。周公の聖徳を亮とせずして、金縢の教言を信ず。豈に暗からずや。
現代語訳
昔、周の成王は幼子として統を継ぎ、管叔・蔡叔ら四国の反乱があった。漢の昭帝は幼年で即位し、これも燕王・蓋長公主・上官氏の謀反の企てがあった。成王は周公を疑わず、昭帝は霍光に委任した。この二人の君主は、どちらが先でどちらが後だろうか。魏の文帝はこう言った。「周の成王は聖なる父の good い気を体し、賢い母の胎教を受けた。周公と召公が守り役となり、呂望が太師となった。口がきけるようになれば使者が言葉を教え、足が歩けるようになれば介添えが作法を導いた。目は威容の美に飽き、耳は徳義の言葉に飽きた。いわば奥深い流れに浸り、清らかな風に沐浴していたのである。それでもなお過ちと悔いがあった。管叔・蔡叔の讒言を聞いて、周公を東へ去らせた。天が激しく怒り、その咎を明らかにして、そのあとでようやく目が覚めた。周公の聖なる徳を信じきれず、金縢の書の言葉によって信じた。なんと暗いことではないか。
解説

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