茶の本 / 第四章 茶室・背後から全身像が見ている
この点においてもまた日本の室内装飾法は西洋の壁炉やその他の場所に物が均等に並べてある装飾法と異なっている。西洋の家ではわれわれから見れば無用の重複と思われるものにしばしば出くわすことがある。背後からその人の全身像がじっとこちらを見ている人と対談するのはつらいことである。肖像の人か、語っている人か、いずれが真のその人であろうかといぶかり、その一方はにせ物に違いないという妙な確信をいだいてくる。お祝いの饗宴に連なりながら食堂の壁に描かれたたくさんのものをつくづくながめて、ひそかに消化の傷害をおこしたことは幾度も幾度もある。何ゆえにこのような遊猟の獲物を描いたものや魚類果物の丹精こめた彫刻をおくのであるか。何ゆえに家伝の金銀食器を取り出して、かつてそれを用いて食事をし今はなき人を思い出させるのであるか。
書き下し
この点においてもまた、日本の室内装飾法は西洋の壁炉やその他の場所に物が均等に並べてある装飾法と異なっている。西洋の家では、われわれから見れば無用の重複と思われるものにしばしば出くわすことがある。背後からその人の全身像がじっとこちらを見ている人と対談するのはつらいことである。肖像の人か、語っている人か、いずれが真のその人であろうかといぶかり、その一方はにせ物に違いないという妙な確信をいだいてくる。お祝いの饗宴に連なりながら、食堂の壁に描かれたたくさんのものをつくづくながめて、ひそかに消化の傷害をおこしたことは幾度も幾度もある。何ゆえに、このような遊猟の獲物を描いたものや、魚類果物の丹精こめた彫刻をおくのであるか。何ゆえに家伝の金銀食器を取り出して、かつてそれを用いて食事をし、今はなき人を思い出させるのであるか。
現代語訳
この点においてもまた、日本の室内装飾法は、西洋の暖炉やその他の場所に物が均等に並べられている装飾法と異なります。西洋の家では、私たちから見れば無用の重複と思われるものにしばしば出会います。背後からその人の全身像がじっとこちらを見ている人と対談するのはつらいことです。肖像の人か、語っている人か、どちらが真のその人だろうかと疑い、一方は偽物に違いないという妙な確信を抱いてきます。お祝いの宴に連なりながら、食堂の壁に描かれた多くのものをつくづく眺めて、ひそかに消化に差し支えたことは何度もあります。なぜこのような狩りの獲物を描いたものや、魚や果物の丹精を込めた彫刻を置くのでしょうか。なぜ家伝の金銀の食器を取り出して、かつてそれで食事をし、今はいない人を思い出させるのでしょうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『茶の本』第四章 茶室・装飾のために構造の美が犠牲にこれらの建物は十二世紀の間事実上そのまま保全せられていた。古い宮殿や寺の内部は、惜しげもなく装飾を施されていた。十世紀にできた宇治の鳳凰堂には、今もなお昔の壁画彫刻の遺物はもとより、丹精をこらした天蓋、金を蒔き鏡や真珠をちりばめた廟蓋を見ることができる。後になって、日光や京都二条の城においては、アラビア式またはムーア式華麗をつくした力作にも等しいような色彩の美や、精巧をきわめたたくさんの装飾のために、建築構造の美が犠牲にせられているのを見る。
-
『茶の本』第四章 茶室・西洋の屋内は博物館に変わるかくのごとく、わが茶室の装飾法は、現今西洋に行なわれている装飾法、すなわち屋内がしばしば博物館に変わっているような装飾法とは趣を異にしていることがわかるだろう。装飾の単純、装飾法のしばしば変化するのになれている日本人の目には、絵画、彫刻、骨董品のおびただしい陳列で永久的に満たされている西洋の屋内は、単に俗な富を誇示しているに過ぎない感を与える。一個の傑作品でも絶えずながめて楽しむには多大の鑑賞力を要する。してみれば、欧米の家庭にしばしば見るような色彩形状の混沌たる間に毎日毎日生きている人たちの風雅な心は、さぞかし際限もなく深いものであろう。
-
『武士道』第十三章 刀・武士の魂・刀匠の工場は至聖処なりき刀を賤むるは即ち其主を侮辱する所以にして、床上の刀を越ゆるの軽忽をなすものあらば、禍直ちに其身に及ぶ。刀は尊貴なるが故に、おのづから美術家の伎倆、主人の虚栄の之に伴ふあり。世泰平にして、佩刀の、僧正の錫杖、帝王の玉笏と択ぶ所無きの日に在りては、殊に其の然るものありき。柄には鮫皮絹糸を巻き、鍔には金銀を鏤め、鞘には五彩を抹漆し、燦煥の美は、反つて刀刃の威を奪ふものがごとし。されど其外飾はただに翫具たるに過ぎざるのみ、刀身の真価はかつて増減あること無し。刀匠はただに工人たる者に非らずして、かへつて天意感通の美術家なり、其工場は至聖処なりき。晨朝斎戒沐浴して其業に従ひ、心魂気魄を打つて錬鉄を鍛冶し、揮槌、入湯、砥礪の如き、皆厳粛なる祭式なり。
-
『茶の本』第三章 道教と禅道・丹霞和尚、木仏を焚く禅は正統の仏道の教えとしばしば相反した、ちょうど道教が儒教と相反したように。禅門の徒の先験的洞察に対しては、言語はただ思想の妨害となるものであった。仏典のあらん限りの力をもってしてもただ個人的思索の注釈に過ぎないのである。禅門の徒は事物の内面的精神と直接交通しようと志し、その外面的の付属物はただ真理に到達する阻害と見なした。この絶対を愛する精神こそは、禅門の徒をして古典仏教派の精巧な彩色画よりも墨絵の略画を選ばしめるに至ったのである。禅学徒のなかには、偶像や象徴によらないでおのれのなかに仏陀を認めようと努めた結果、偶像破壊主義者になったものさえある。丹霞和尚は大寒の日に木仏を取ってこれを焚いたという話がある。
-
『墨子』辭過古の民、未だ舟車を為るを知らざる時、重任は移らず、逺道は至らず。故に聖王、作りて舟車を為り、以て民の事に便す。其の舟車を為るや、全固輕利にして、以て重きに任じ逺きに致す可し。其の財を用うること少くして、利を為すこと多し。是を以て民樂しみて之を利す。故に法令は急ならずして行われ、民は勞せずして上は用を足す。故に民之に歸す。今の王に當たりては、其の舟車を為ること此と異なれり。全固輕利は皆な已に具われるに、必ず厚く百姓に作斂し、以て舟車を飾る。車を飾るに文采を以てし、舟を飾るに刻鏤を以てす。女子は其の紡織を廢して文采を脩む、故に民寒し。男子は其の耕稼を離れて刻鏤を脩む、故に民饑う。人君の舟車を為すこと此くの若し。故に左右之に象る。是を以て其の民、饑寒並び至る。故に姦衺を為すこと多し。多ければ則ち刑罰深く、刑罰深ければ則ち國亂る。君、實に天下の治を欲して其の亂を惡まば、當に舟車を為すは節せざる可からず。
-
『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・細事を推して経済論の大義に付会して洋人は鼻汁を拭うに毎次紙を用いて直ちにこれを投棄し、日本人は紙に代わるに布を用い、したがって洗濯してしたがってまた用うるの風ならば、論者たちまち頓智を運らし、細事を推して経済論の大義に付会して言わん、「資本に乏しき国土においては、人民みずから知らずして節倹の道に従うことあり。日本全国の人民をして鼻紙を用うること西洋人のごとくならしめなば、その国財の幾分を浪費すべきはずなるに、よくその不潔を忍んで布を代用するは、みずから資本の乏しきに迫られて節倹に赴くものと言うべし」と。日本の婦人、その耳に金環を掛け、小腹を束縛して衣裳を飾ることあらば、論者、人身窮理の端を持ち出して顰蹙して言わん、「はなはだしいかな、不開化の人民、理を弁じて天然に従うことを知らざるのみならず、ことさらに肉体を傷つけて耳に荷物を掛け、婦人の体においてもっとも貴要部たる小腹を束ねて蜂の腰のごとくならしめ、もって妊娠の機を妨げ、分娩の危難を増し、その禍の小なるは一家の不幸を致し、大なるは全国の人口生々の源を害するものなり」と。