導師導古典を学びたいすべての人に

武士道 / 第十四章 婦人の教育と地位・男女は合して一体となる

予の觀る所を以てすれば、吾人の婚娶に對する觀念は、或は彼の所謂基督教徒的思想に優越せるものあるに似たり。曰く『男女は合して一體となるべし」と然るにアングロ、サクソン人種の個人主義は、夫婦を以て二人なりとするの思想を排除する能はず。彼等の一旦反目するや、個々の權利は直ちに承認せられ、其唱和するや、癡呆の寵稱愚劣の諛辭を恣にするに言語もこれ足らず。夫又たは妻に對して、人!ウオルス、其半身――優等牛身か、劣等牛身の孰れにもせよ、其半身を稱するに、聰明なり、信實なり、彼なり、此なり等の言を用ふること、日本人は之れを聞きて悖理の酷だしきものなりとす。他に對して自から己れを稱するに、『聰明なる我』、『愛すべき我が性質』等の辭を以てすとせば、果して佳なりや。

新字:予の観る所を以てすれば、吾人の婚娶に対する観念は、或は彼の所謂基督教徒的思想に優越せるものあるに似たり。曰く『男女は合して一体となるべし」と然るにアングロ、サクソン人種の個人主義は、夫婦を以て二人なりとするの思想を排除する能はず。彼等の一旦反目するや、個々の権利は直ちに承認せられ、其唱和するや、痴呆の寵称愚劣の諛辞を恣にするに言語もこれ足らず。夫又たは妻に対して、人!ウオルス、其半身――優等牛身か、劣等牛身の孰れにもせよ、其半身を称するに、聰明なり、信実なり、彼なり、此なり等の言を用ふること、日本人は之れを聞きて悖理の酷だしきものなりとす。他に対して自から己れを称するに、『聰明なる我』、『愛すべき我が性質』等の辞を以てすとせば、果して佳なりや。

書き下し

予の観る所を以てすれば、吾人の婚娶に対する観念は、或は彼の所謂基督教徒的思想に優越せるものあるに似たり。曰く『男女は合して一体となるべし』と。然るにアングロ・サクソン人種の個人主義は、夫婦を以て二人なりとするの思想を排除する能はず。彼等の一旦反目するや、個々の権利は直ちに承認せられ、其唱和するや、痴呆の寵称、愚劣の諛辞を恣にするに言語もこれ足らず。夫又たは妻に対して、〔人!ウオルス:OCRの乱れ〕其半身――優等半身か、劣等半身の孰れにもせよ――其半身を称するに、聡明なり、信実なり、彼なり、此なり等の言を用ふること、日本人は之れを聞きて悖理の甚だしきものなりとす。他に対して自から己れを称するに、『聡明なる我』、『愛すべき我が性質』等の辞を以てすとせば、果して佳なりや。

現代語訳

私の見るところでは、私たちの結婚に対する考え方は、いわゆるキリスト教徒の考えより、あるいはまさっている所があるように思われる。聖書には「男と女は合わさって一体となる」とある。ところがアングロ・サクソン人の個人主義は、夫婦を二人の人間とみなす考えを捨て去ることができない。彼らはいったん仲たがいすると、それぞれの権利がただちに認められ、仲むつまじいときには、たわいない愛称や愚かなお世辞を言葉の限りを尽くして並べ立てる。夫あるいは妻に向かって(この間に読めない文字列がある)、自分の半身――よりよき半身であれ、劣った半身であれ――その半身のことを、賢いとか、誠実だとか、あれこれの言葉でほめることを、日本人は聞いて、ひどく筋の通らないことだと思う。他人に向かって自分のことを「賢い私」「愛すべき私の性質」などと言うとしたら、はたしてよいことだろうか。

解説

日本人が人前で配偶者を「愚妻」などとへりくだって呼ぶ習慣を、西洋の読者に説明するための段です。新渡戸は、聖書の「二人は一体となる」という教えを持ち出し、夫婦を本当に一体と考えるなら、配偶者をほめるのは自分をほめるのと同じで見苦しい、という理屈を示します。そして、夫婦を二人の個人とみなすアングロ・サクソンの個人主義は、仲たがいすれば権利を言い立て、仲がよければ甘い言葉を並べる、と皮肉を込めて描きます。英語の「ベターハーフ」という言い回しを踏まえた議論です。今の感覚では、へりくだりの習慣そのものに疑問を持つ人も多いでしょう。身近な人を人前でどう呼び、どう語るか。そこにどんな関係の考え方が表れているか、見直してみてください。

この章句が説くこと

夫婦一体謙遜個人主義結婚

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る