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武士道 / 第十四章 婦人の教育と地位・家庭的と勇婦的の二特色

婦の思想は、英語にてワイフ(妻・織女の義)及びドーター(娘・酪婦)の字義の有する所に等しく、共に家庭的なり。又た獨逸皇帝の如くに、單に婦人活動の範圍を以て、厨房(Küche)、教會(Kirche)及び小兒(Kinder)の三Kに限るものに非らずと雖、武士道の理想的婦人は、要するに家庭的なるものなりき。其の家庭的なると、勇婦的なるとの武士道女性の二特色は、一見矛盾するの狀ありて、而して武士道の教訓よりすれば、此の二者決して兩立せざるものに非らざりき。武士道は元、男子の爲に設けたる教訓なり。故に其の女子に要するの諸德の、自から女德に遠きものあり。ウインケルマンは、希臘藝術の極美は女性的なるよりも寧ろ男性的なりと云ひ、レツキーは之に和して、希臘人の道德觀念に於て見るも、其美術に於けると等しきものありたりと云ふ。

新字:婦の思想は、英語にてワイフ(妻・織女の義)及びドーター(娘・酪婦)の字義の有する所に等しく、共に家庭的なり。又た独逸皇帝の如くに、単に婦人活動の範囲を以て、厨房(Küche)、教会(Kirche)及び小児(Kinder)の三Kに限るものに非らずと雖、武士道の理想的婦人は、要するに家庭的なるものなりき。其の家庭的なると、勇婦的なるとの武士道女性の二特色は、一見矛盾するの状ありて、而して武士道の教訓よりすれば、此の二者決して両立せざるものに非らざりき。武士道は元、男子の為に設けたる教訓なり。故に其の女子に要するの諸徳の、自から女徳に遠きものあり。ウインケルマンは、希臘芸術の極美は女性的なるよりも寧ろ男性的なりと云ひ、レツキーは之に和して、希臘人の道徳観念に於て見るも、其美術に於けると等しきものありたりと云ふ。

書き下し

婦の思想は、英語にてワイフ、すなはち織女の義、及びドーター、すなはち酪婦の字義の有する所に等しく、共に家庭的なり。又た独逸皇帝の如くに、単に婦人活動の範囲を以て、厨房、教会及び小児の三Kに限るものに非らずと雖、武士道の理想的婦人は、要するに家庭的なるものなりき。其の家庭的なると、勇婦的なるとの武士道女性の二特色は、一見矛盾するの状ありて、而して武士道の教訓よりすれば、此の二者、決して両立せざるものに非らざりき。武士道は元、男子の為に設けたる教訓なり。故に其の女子に要するの諸徳の、おのづから女徳に遠きものあり。ウィンケルマンは、希臘芸術の極美は女性的なるよりも寧ろ男性的なりと云ひ、レッキーは之に和して、希臘人の道徳観念に於て見るも、其美術に於けると等しきものありたりと云ふ。

現代語訳

婦という思想は、英語のワイフ、すなわち機を織る女の意味、およびドーターすなわち乳を搾る女という字義が持つところと同じく、ともに家庭的です。またドイツ皇帝のように、婦人の活動範囲を単に厨房と教会と子どもの三つのKに限るものではありませんが、武士道の理想とする婦人は要するに家庭的なものでした。その家庭的であることと勇ましいことという武士道の女性の二つの特色は、一見すると矛盾するようですが、武士道の教えからすれば、この二つは決して両立しないものではありませんでした。武士道はもともと男子のために設けられた教えです。ですからそこで女性に求められる徳には、おのずと女性の徳から遠いものがあります。ヴィンケルマンは、ギリシャ芸術の極みの美は女性的というよりむしろ男性的だと言い、レッキーもこれに和して、ギリシャ人の道徳観念においても美術と同じことがあったと言います。

解説

武士道の理想の女性像が、家庭的と勇ましいという二面で説明されます。矛盾しないと言うのですが、根拠が示されるのは次の段からです。重要なのは、武士道がもともと男子のための教えだと認めている点で、そこで女性に求められる徳が女性本来のものから遠いことを、著者自身が指摘しています。制度の偏りを認めたうえで説明する姿勢です。

この章句が説くこと

女性家庭矛盾偏り

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