武士道 / 第六章 禮儀・贈り物を軽んじる理由
然るに此一事は皮相の觀察よりして日本を評する外人の多くが以て單に冠履轉倒せる我國風の然らしむる所なりとして不問に附するものなり。此慣習に接せる外人は皆、其際妥當の答をなすに窮することを自白せん。今夫れ人の他に物を贈るや、米國にては其物品を賞揚し、日本にては之を輕んじ賤しむ。米國人の意は即ち『贈る所の物品は貴し。若し貴からずは爭でか君に贈らんや。貴からざるを取りて、君に贈るは君を辱しむる所以なり』と云ふにあり。之に反し日本人の論法は、即ち『君は貴し、何等の物も君に於て貴きをなさず。君の唯だ予が一片の誠意を領するに非ずんば爭でか予の足下に献ずる物を受納せんや。されば此物の價を受けずして、予の寸志を納れよ。
新字:然るに此一事は皮相の観察よりして日本を評する外人の多くが以て単に冠履転倒せる我国風の然らしむる所なりとして不問に附するものなり。此慣習に接せる外人は皆、其際妥当の答をなすに窮することを自白せん。今夫れ人の他に物を贈るや、米国にては其物品を賞揚し、日本にては之を軽んじ賤しむ。米国人の意は即ち『贈る所の物品は貴し。若し貴からずは争でか君に贈らんや。貴からざるを取りて、君に贈るは君を辱しむる所以なり』と云ふにあり。之に反し日本人の論法は、即ち『君は貴し、何等の物も君に於て貴きをなさず。君の唯だ予が一片の誠意を領するに非ずんば争でか予の足下に献ずる物を受納せんや。されば此物の価を受けずして、予の寸志を納れよ。
書き下し
然るに此一事は、皮相の観察よりして日本を評する外人の多くが、以て単に冠履転倒せる我国風の然らしむる所なりとして、不問に附するものなり。此慣習に接せる外人は皆、其際妥当の答をなすに窮することを自白せん。今夫れ人の他に物を贈るや、米国にては其物品を賞揚し、日本にては之を軽んじ賤しむ。米国人の意は即ち『贈る所の物品は貴し。もし貴からずは、いかでか君に贈らんや。貴からざるを取りて君に贈るは、君を辱しむる所以なり』と云ふにあり。之に反し、日本人の論法は即ち『君は貴し、何等の物も君に於て貴きをなさず。君のただ予が一片の誠意を領するに非ずんば、いかでか予の足下に献ずる物を受納せんや。されば此物の価を受けずして、予の寸志を納れよ』
現代語訳
ところがこの一事は、表面だけを見て日本を評する外国人の多くが、単に何でもあべこべなわが国の風習のせいだとして、問わずに済ませるものです。この習慣に接した外国人は皆、そのとき適切な返事をするのに困ることを白状するでしょう。人が他人に物を贈るとき、アメリカではその品物を褒め称え、日本ではこれを軽んじ賤しめます。アメリカ人の考えは、贈る品物は立派なものだ。もし立派でなければ、どうしてあなたに贈ろうか。立派でないものを取ってあなたに贈るのは、あなたを辱めることだ、というものです。これに反して日本人の論法は、あなたは貴い。どんな物もあなたにとって貴いものにはならない。あなたが私のわずかな誠意を受け取ってくださるのでなければ、どうして私が差し出す物を受け取っていただけましょう。ですからこの物の値打ちを受け取らず、私のささやかな志を納めてください、というものです。
解説

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