武士道 / 第三章 正義・義理は義しき道理
輙輙もすれば權謀を以て戰術となし、詭道を以て兵略となすの時代に在りても、義と名づくる此の率直正大なる丈夫の德は、燦爛たる明珠の如く、人の歎賞して措かざるところなりき。義、勇の二は、雙生せる武德なり。されど、勇の說を爲すに先だち、由來義より出でゝ、而して初は義と異ること毫釐の間なりしと雖、漸次懸絕して、遂に世俗の曲解妄用に陷りたるものに就き予は爰に多少の辯を加へんとす。是れ即ち『義理』なり。字義より推せば義しき道理なり。然るに時と共に移りて、義務の朦朧たる觀念となり、俗論は人に俟つに之に遵ふべきを以てするに至れり。『義理』の有せる本來無垢の旨意は、純粹簡明なる義務の謂なりき。されば、父母、長者、臣僕より、大にしては社會に對し、國家に對して、負ふべき義理ありなど云ふ時其義理とは即ち義務の意なり。
新字:輙輙もすれば権謀を以て戦術となし、詭道を以て兵略となすの時代に在りても、義と名づくる此の率直正大なる丈夫の徳は、燦爛たる明珠の如く、人の嘆賞して措かざるところなりき。義、勇の二は、双生せる武徳なり。されど、勇の説を為すに先だち、由来義より出でゝ、而して初は義と異ること毫釐の間なりしと雖、漸次懸絶して、遂に世俗の曲解妄用に陥りたるものに就き予は爰に多少の弁を加へんとす。是れ即ち『義理』なり。字義より推せば義しき道理なり。然るに時と共に移りて、義務の朦朧たる観念となり、俗論は人に俟つに之に遵ふべきを以てするに至れり。『義理』の有せる本来無垢の旨意は、純粋簡明なる義務の謂なりき。されば、父母、長者、臣僕より、大にしては社会に対し、国家に対して、負ふべき義理ありなど云ふ時其義理とは即ち義務の意なり。
書き下し
ややもすれば権謀を以て戦術となし、詭道を以て兵略となすの時代に在りても、義と名づくる此の率直正大なる丈夫の徳は、燦爛たる明珠の如く、人の歎賞して措かざるところなりき。義、勇の二は、双生せる武徳なり。されど、勇の説を為すに先だち、由来義より出でて、而して初は義と異ること毫釐の間なりしと雖、漸次懸絶して、遂に世俗の曲解妄用に陥りたるものに就き、予はここに多少の弁を加へんとす。是れ即ち『義理』なり。字義より推せば、義しき道理なり。然るに時と共に移りて、義務の朦朧たる観念となり、俗論は人に俟つに、之に遵ふべきを以てするに至れり。『義理』の有せる本来無垢の旨意は、純粋簡明なる義務の謂なりき。されば、父母、長者、臣僕より、大にしては社会に対し、国家に対して、負ふべき義理ありなど云ふ時、其義理とは即ち義務の意なり。
現代語訳
ともすれば権謀を戦術とし、だます道を兵略とする時代においても、義と名づけるこの率直で正しく大きな男の徳は、輝く宝玉のように、人が讃えてやまないところでした。義と勇の二つは双子の武徳です。しかし勇を説く前に、もともと義から出て、最初は義と紙一重の違いであったのに、次第に隔たって、ついに世俗の曲解と誤用に陥ったものについて、私はここで少し述べようと思います。それが義理です。字の意味から推せば、義しい道理です。ところが時とともに移って、義務のぼんやりした観念になり、世間の議論は人に対して、これに従うべきものとして待ち構えるようになりました。義理が本来持っていた無垢な趣旨は、純粋で簡明な義務のことでした。ですから、父母や年長者や臣下に対して、大きくは社会に対して、国家に対して負うべき義理がある、などと言うとき、その義理とは義務の意味です。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武士道』第三章 正義・義理は義務を謂うに外ならず然り、義務とは即ち義しき道理の要求命令するもの、カテゴリカル・インペラティーヴに非らざる無きか。義しき道理とは、人に於ける無上命令たるべきものにあらずや。義理とは原、義務を謂ふに外ならざりき。而して此字義の由来する所を料るに、其故あり。人の行為、例せば、父母に奉事するが如き、一に愛を以て動機とすべきものなるに、もし之を欠かんか、乃ち他の権能の、能く人をして孝ならしむべきもの無くんばあるべからず。是に於てか、世は乃ち義理に於て其権能を作為せり。愛の自から徳行に馳すること無くんば、乃ち人の知能に訴へ、其理性を励まして、行正しきを要することを暁らしめざるべからず。されば義理の権能の形成せられたる、まことに以ありと謂ふべし。
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『武士道』第三章 正義・義理は厳酷なる教師の如し他の道徳責任に於けるも亦た皆かくの如し。今夫れ、人の義務を厭ふや、義理は直ちに現はれ来りて、此れより免る能はざらしむ。義理は、譬ふるに厳酷なる教師の如し。笞を執りて懶惰の児童に臨み、其分を致さしむ。されば義理は道義の力の副位に在りて、彼の基督の教の、愛即ち法を以て動機とするとは天壤の差あり。要するに義理は人為の社会、即ち血統爵位の如き、人生偶然の差等の、階級の序を成し、家族は国家の単位たり、年歯は才幹よりも重く、自然の愛情の、往々人為の専横なる慣習に屈従する社会の状態の産物なり。義理は人為なるを以て、遂に漠然たる観念に陥り、唯だ彼を説明し、此を是認するの儀則となり終れり。例せば、母たるものの、止むを得ざるに当りては、弟妹を犠牲として、長子を救ひ、女子たるものの貞操を売りて、父の酒色を購ふことある、は何が故ぞ、是れ即ち義理なりと称す。
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『武士道』第三章 正義・節義は人の体に骨あるが如し義は武士道の厳訓なり。武士最も醜汚奸邪を悪む。義の観念には、或は誤謬に失せるものあらん、或は狭隘に過ぐるものあらん。名ある武士は、此れが定義を与へて、『義は勇の相手にて、裁断の心なり。道理に任せて決心して、猶予せざる心を云ふなり。死すべき場合に死し、討つべき場合に討つことなり』(林子平)と云ひ、又た一人は説明して、『節義は例へて云はば、人の体に骨あるが如し。骨無ければ、首も正しく上に在ることを得ず。されば人は才能ありとても、学問ありとても、節義なければ、世に立つ事を得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけの事欠かぬなり』(真木和泉)と曰へり。孟子は『仁は人の心なり、義は人の路なり』と曰ひ、且つ嘆ずらく『其の路を舎てて由らず、其の心を放ちて求むるを知らず、哀しきかな』と。
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『武士道』第十四章 婦人の教育と地位・善悪の分水点を義務に置く然るに武士道の倫理に於ては、善悪の分水点を他に求め、之を義務の辺に置いて、人を自己の神聖なる霊魂に結び、且又た予の先きに述べたる五倫の道に於て、彼を他人の霊魂に約するものなり。此の五倫の中、吾人はひとり臣下たる一人と、君主たる他人との間に存する倫道、即ち忠義を挙げて之を説き、他は又た武士道の特質たるものに非らざりしを以て、予はただ機に触れて多少の言を加へたるのみ。此等は自然の愛情に基くものなるが故に、凡百の人類皆之を有し、ただ其教訓とする所のものの誘起したる境遇により、彼此の特点の或は著明なるを致すことあり。而して語ここに及んで、予は又た男子間の友誼の、互に刎頸を約し、断金を契りて、堅実切偲なるものありしを想起せずんばあらず。
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『武士道』第一章 武士道の倫理系・武士道は騎士制度より深い日本語にて武士道と謂ふものは、英語のシヴァリー即ち騎士制度と云ふよりも、意義の更に深きものあり。乃ち武士が、日常の生活動作に於て、又た其職分を尽すに於て、共に守るべき道にして、要言せば即ち武門の教訓なり、武人階級ノブレス・オブリージュに伴ふ尊貴の責務なり。されば此字の如きは、之を他国の語に訳して妥当なる能はず。夫れ我武士道の如くに、自から範囲あり、又た比匹を見ずして、特殊なり、邦土的なる心性品格を生ぜる教訓は、此れが特性を標榜すべき名目なからざるべからず。或る文字は、之に伴ふ国調ありて人種的特質を帯び、熟達なる訳者の妙筆も之を訳するに於て、たとひ全然誤謬失当に陥ることなしとすとも、なお其正を得るに難し。誰か独逸語のゲミュート(心気精神の義)を訳して、其意義を精からしむることを得るものぞ。
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