武士道 / 上英文武士道論書・皇祖皇宗の遺訓を外邦に伝う
加ふるに波希米語の譯文あり、近くは又た波蘭語に飜譯せらる。其序に曰く、之に依て日本文明の淵源遠く、其國民の義勇天下に比無き、良に以あるを知ると。此他尙ほ佛蘭西語及那威語の兩譯亦た遠からずして出づべしと聞けり。更に傳ふ、北米合衆國大統領ルーズベルト閣下、此書を購めて、交友の間に頒たれたりと。稻造短才薄識加ふるに病羸、宿志未だ成す所あらず、上は聖恩に背き、下は父祖に愧づ。唯僅に卑見を述べて此書を作る。庶幾くは、皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精神とを外邦に傳へ、以て國恩の萬一に報い奉らんことを。謹で此書を上り、乙夜の覽を仰ぎ奉る誠惶頓首唯僅に卑見を述べて此明治三十八年四月京都帝國大學法科大學教授從五位勳六等農學博士新渡戶稻造再拜白予に教ふるに往時を敬重し武士の德行を欣慕することを以てしたる我が愛する叔父太田時敏君に献ずるに此部著を以てす
新字:加ふるに波希米語の訳文あり、近くは又た波蘭語に翻訳せらる。其序に曰く、之に依て日本文明の淵源遠く、其国民の義勇天下に比無き、良に以あるを知ると。此他尚ほ仏蘭西語及那威語の両訳亦た遠からずして出づべしと聞けり。更に伝ふ、北米合衆国大統領ルーズベルト閣下、此書を購めて、交友の間に頒たれたりと。稲造短才薄識加ふるに病羸、宿志未だ成す所あらず、上は聖恩に背き、下は父祖に愧づ。唯僅に卑見を述べて此書を作る。庶幾くは、皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精神とを外邦に伝へ、以て国恩の万一に報い奉らんことを。謹で此書を上り、乙夜の覧を仰ぎ奉る誠惶頓首唯僅に卑見を述べて此明治三十八年四月京都帝国大学法科大学教授従五位勲六等農学博士新渡戸稲造再拝白予に教ふるに往時を敬重し武士の徳行を欣慕することを以てしたる我が愛する叔父太田時敏君に献ずるに此部著を以てす
書き下し
加ふるに波希米語の訳文あり、近くは又た波蘭語に翻訳せらる。其序に曰く、之に依て日本文明の淵源遠く、其国民の義勇、天下に比無き、良に以あるを知ると。此他なお仏蘭西語及び那威語の両訳、亦た遠からずして出づべしと聞けり。更に伝ふ、北米合衆国大統領ルーズベルト閣下、此書を購めて、交友の間に頒たれたりと。稲造、短才薄識、加ふるに病羸。宿志未だ成す所あらず、上は聖恩に背き、下は父祖に愧づ。唯わずかに卑見を述べて此書を作る。庶幾くは、皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精神とを外邦に伝へ、以て国恩の万一に報い奉らんことを。謹んで此書を上り、乙夜の覧を仰ぎ奉る。誠惶頓首。明治三十八年四月、京都帝国大学法科大学教授、従五位勲六等農学博士、新渡戸稲造、再拝。予に教ふるに、往時を敬重し武士の徳行を欣慕することを以てしたる我が愛する叔父、太田時敏君に献ずるに、此部著を以てす。
現代語訳
これに加えてチェコ語の訳があり、近くはまたポーランド語にも翻訳されました。その序文には、これによって日本の文明の源が遠いこと、その国民の義勇が世界に比べるものがないことには、まことに理由があると知った、とあります。このほかフランス語とノルウェー語の訳も、遠からず出るだろうと聞いております。さらに伝え聞くところでは、アメリカ大統領ルーズベルト閣下がこの本を買い求め、友人の間に配られたそうです。稲造は才が短く知識が薄く、加えて病弱です。かねての志はまだ果たせず、上は天皇の恩に背き、下は父祖に恥じております。ただわずかに自分の見るところを述べてこの本を作りました。願うのは、皇祖皇宗の遺訓と武士道の精神を外国に伝え、それによって国の恩のいくらかでもお返しすることです。謹んでこの本を献上し、夜のご覧を仰ぎます。明治三十八年四月。私に、昔を敬い武士の徳行を慕うことを教えてくれた、愛する叔父・太田時敏君に、この著作を献じます。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
説苑・修文春秋に曰く、「壬申、公高寢に薨ず。」傳に曰く、「高寢とは何ぞ?正寢なり。曷為れぞ或いは高寢と言い、或いは路寢と言うか?曰く、諸侯の正寢三つ、一に曰く高寢、二に曰く左路寢、三に曰く右路寢。高寢とは、始めて封ぜられし君の寢なり。二つの路寢とは、體を繼ぐ君の寢なり。其の二つなるは何ぞ?曰く、子父の寢に居らず、故に二寢あり。體を繼ぐ君は世世高祖の寢に居るべからず、故に高寢有り、名づけて高と曰う。路寢其の立つこと奈何?高寢中に立ち、路寢左右す。」と。春秋に曰く、「天王成周に入る。」傳に曰く、「成周とは何ぞ?東周なり。然らば則ち天子の寢奈何?曰く、亦二つの承明あり、體を繼ぎ文を守る君の寢、左右の路寢と曰う。之を承明と謂うは何ぞ?曰く、明堂の後に承くる者なり。故に天子諸侯三寢立ちて名實正しく、父子の義章らかに、尊卑の事別れ、大小の德異なるなり。」
-
『武士道』第十六章 武士道の命脈・七百年に蓄積したる動量其メーソニック・サイン明亮なることは、個々の間、暗号を有せずしてなお能く直ちに感通するを得るに足るものあり、となす。武士道の我国民、特に士林に印象したる性格は、之を以て種属の具有する不変の要素を形成するものなりと称するを得ずと雖、なお之れが活力を保有せることは、復た疑を容れず。武士道もしただ物理力に過ぎずとすとも、なお既往七百年の間に蓄積したる動量は、俄然停止するを得べきに非ず。武士道はただ遺伝によりてのみ継承したりとすとも、其感化の範囲はすこぶる広大ならずんばあらず。試みに思へ、仏国経済学者ケソン氏が、仮に一世紀を人間三代と定めて打算せば、『吾人は各自其血管中に、紀元一千年に生存したる、少くも二千万人の血液を伝ふるものなり』と云へるを。
-
説苑・建本晋の襄公薨じ、嗣君少く、趙宣子相たり。大夫に謂いて曰わく、「少君を立つれば、多難ならんことを懼る。請う雍を立てん。雍長じ、出でて秦に在り、秦大にして、以て援と為すに足る」と。賈季曰わく、「公子楽に若かず。楽国に寵有り、先君愛して之を翟に仕えしむ、翟是を以て援と為す」と。穆嬴太子を抱きて庭に呼びて曰わく、「先君奚の罪ありや、其の嗣も亦奚の罪ありや。嫡嗣を捨てて立てずして外に君子を求む」と。朝を出でて抱きて宣子に見えて曰わく、「難きを悪みて、故に長君を立てんと欲するも、長君立ちて少君壮なれば、難乃ち至らん」と。宣子之を患い、遂に太子を立つ。
-
孟子・盡心章句下孟子曰く、「堯舜由り湯に至るまで、五百有餘歲。禹・皋陶の若きは、則ち見て之を知る。湯の若きは、則ち聞きて之を知る。湯由り文王に至るまで、五百有餘歲。伊尹・萊朱の若きは、則ち見て之を知る。文王の若きは、則ち聞きて之を知る。文王由り孔子に至るまで、五百有餘歲。太公望・散宜生の若きは、則ち見て之を知る。孔子の若きは、則ち聞きて之を知る。孔子由り而來今に至るまで、百有餘歲。聖人の世を去ること、此の若く其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと、此の若く其れ甚しきなり。然り而して有ること無しとせば、則ち亦た有ること無からん。」
-
『墨子』耕柱公孟子曰く、「君子は作らず、術ぶるのみ」と。子墨子曰く、「然らず。人の其れ君子ならざる者は、古の善き者は誅がず、今や善き者は作らず。其の次に君子ならざる者は、古の善き者は遂げず、已に善有れば則ち之を作り、善の己より出でんことを欲す。今、誅ぎて作らざるは、是れ遂ぐるを好まずして作る者に異なる所無きなり。吾れ以為えらく、古の善き者は則ち之を誅ぎ、今の善き者は則ち之を作り、善の益ます多からんことを欲すと」と。
-
論語・里仁篇子曰く、三年父の道を改むること無きは、孝と謂う可し。