墨子 / 經下
而不撓,説在勝。一法者之相與也,盡若方之相召也,説在方。契與枝板説在薄狂舉不可以知異,説在有不可。牛馬之非牛,與可之同,説在兼。倚者不可正,説在剃循此循此與彼此同,説在異。推之必往説在廢材。唱和同患,説在功。買無貴,説在仮其賈。聞所不知,若所知,則兩知之,説在告。賈宜則讐説在盡。以言為盡誖,誖,説在其言。無説而懼,説在弗心。惟吾謂非名也則不可,説在仮。或過名也,説在實。無窮不害兼,説在盈否。
新字:而不撓,説在勝。一法者之相与也,尽若方之相召也,説在方。契与枝板説在薄狂舉不可以知異,説在有不可。牛馬之非牛,与可之同,説在兼。倚者不可正,説在剃循此循此与彼此同,説在異。推之必往説在廃材。唱和同患,説在功。買無貴,説在仮其賈。聞所不知,若所知,則両知之,説在告。賈宜則讐説在尽。以言為尽誖,誖,説在其言。無説而懼,説在弗心。惟吾謂非名也則不可,説在仮。或過名也,説在実。無窮不害兼,説在盈否。
書き下し
而も撓まざるは、説は勝に在り。一法なる者の相い與するや、盡く方の相い召くが若し。説は方に在り。契と枝板とは、説は薄に在り。狂舉は以て異を知る可からず、説は不可なる有るに在り。牛馬の牛に非ざると、可なるの同じきとは、説は兼に在り。倚る者は正す可からず、説は剃に在り。此に循い此に循うと彼と此と同じきは、説は異に在り。之を推せば必ず往く、説は材を廢するに在り。唱と和と患いを同じくす、説は功に在り。買うに貴き無し、説は其の賈に仮るに在り。知らざる所を聞くこと、知る所の若くんば、則ち兩つながら之を知る。説は告ぐるに在り。賈、宜しければ則ち讐る、説は盡に在り。言を以て盡く誖ると為すは誖る、説は其の言に在り。説無くして懼るるは、説は心にせざるに在り。惟だ吾が謂うは名に非ずとせば則ち不可なり、説は仮に在り。或いは名を過つは、説は實に在り。無窮は兼を害せず、説は盈と否とに在り。
現代語訳
それでもたわまないのは、その説明が「勝」にある。同じ法によるものが互いに関わり合うのは、すべて方が互いに呼び合うようなものである。その説明は「方」にある。契と枝板は、その説明が「薄」にある。乱暴な挙げ方では違いを知ることができない。その説明は、できないものがあることにある。牛馬が牛でないことと、そう言ってよいことが同じであるのは、その説明が「兼」にある。傾いているものは正すことができない。その説明は「剃」にある。これに従いこれに従うことと、あれとこれが同じであることは、その説明が「異」にある。これを推し進めれば必ず行き着く。その説明は材を廃することにある。唱える者と和する者は憂いを同じくする。その説明は「功」にある。買うのに高いということはない。その説明はその値に依ることにある。知らないことを聞いて、知っていることと同じであれば、両方を知ったことになる。その説明は「告げる」ことにある。値が適っていれば売れる。その説明は「尽」にある。すべての言葉は誤りだとするのは、それ自体が誤りである。その説明はその言葉自身にある。説明もなく恐れるのは、その説明が心によらないことにある。ただ自分の言うことは名ではないとするなら、それは成り立たない。その説明は「仮」にある。あるいは名を誤るのは、その説明が実にある。無窮であることは兼愛を妨げない。その説明は満ちているかどうかにある。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『墨子』經下知りて之を知り、之を否とするは、用うるに足るなり。諄は、説は以て無きに在り。其の數を知らずして其の盡くるを知るは、説は眀者に在り。辯に勝つこと無しと謂うは、必ず當たらず。説は辯に在り。其の處る所を知らざるも、之を愛するを害せず。説は子を䘮う者に在り。讓らざる無きは不可なり、説は始に在り。仁義の外内為るや、内は説は仵顔に在り。一に於いて知る有り、知らざる有るは、説は存に在り。學の益あるは、説は誹る者に在り。二を指す有りて逃る可からざるは、説は二を以て絫ぬるに在り。之を誹るの可否は、衆寡を以てせず、説は非とす可きに在り。知りて指す能わざるは、説は春と逃臣と狗犬と貴者とに在り。誹る者を非とするは諄なり、説は非とせざるに在り。狗を知りて自ら犬を知らずと謂うは、過ちなり。説は重に在り。物、箕なるも甚しからず、説は是くの若きに在り。意を通じて後に對うるは、説は其の誰を謂うかを知らざるに在り。下を取りて以て上を求むるは、説は澤に在り。是と是とは同じ、説は州せざるに在り。
-
『墨子』經下止は、類以て人を行かしむ。説は同に在り。存する所と與にする者は、存すると孰れか存す。駟の異説、類を推すの難きは、説は之の大小に在り。五行に常に勝つもの母し、説は宜に在り。物、盡く名を同じくす。二と鬭、愛、食と招、白と視、麗と夫と履。一は、偏に之を棄つ。謂いて固より是なるは、説は因に在り。偏に去りて二とす可からざるは、説は見と俱、一と二、廣と循に在り。欲惡の益損を為すこと無きは、説は宜に在り。能わずして害あらざるは、説は害に在り。損じて害あらざるは、説は餘に在り。異類は吡べず、説は量に在り。知りて五路を以てせざるは、説は久に在り。偏に去るも少なきを加うる莫きは、説は故に在り。必ず熱きは、説は頓に在り。假は必ず誖る、説は然らざるに在り。其の知らざる所以を知るは、説は名を以て取るに在り。
-
『墨子』經下物の然る所以と、之を知る所以と、人をして之を知らしむる所以とは、必ずしも同じからず。説は病に在り。無は必ずしも有を待たず、説は謂う所に在り。疑は、説は逢・循・遇・過に在り。慮を擢けば疑わず、説は有無に在り。合と一と、或いは復た否なるは、説は拒に在り。且に然らんとするも、正す可からず。而れども工を用うるを害せず、説は宜に在り。物を歐るは一體なり、説は倶に一なるは惟れ是なるに在り。之を均しくして絶えざるは、説は均しくする所に在り。宇は或いは従う、説は長宇と久とに在り。堯の義は、今に生じて古に處り、而も時を異にす。説は義とする所に在り。二つながら鑑に臨みて立てば、景、到まにして多くして少なきが若し。説は寡區に在り。狗は犬なり。而れども狗を殺すは犬を殺すに非ずとするは可なり、説は重に在り。鑑の位量、一は小にして易わり、一は大にして缶し。説は中の外内に在り。使い、殷んに美なり、説は使に在り。鑑の景、一なり。
-
『墨子』經說下止。彼は此を以て其れ然りと為し、是れ其れ然りと説く。我れは此を以て其れ然らずと為し、是れ其れ然るを疑う。四足の獸と、立つ鳥と物とを謂うは、盡くと大小となり。此れ然れば是れ必ず然りとせば、則ち倶に麋と為らん。同名。倶に鬬すれども、倶には二ならざるは、三と鬬となり。包・肝・肺・子は、愛なり。橘と茅とは、食と抬となり。白馬は白多く、馬を視るも視ること多からざるは、白と視となり。麗を為すも必ずしも麗ならざるは、麗と暴となり。非を為すも人を以て是とすれば、非を為さず。夫の勇を為すも、夫と為らざるが若し。屨を為るに買を以てす。衣、屨を為るは、夫と屨となり。二と一と亡ぶ。一と偏去と未とに與せず。文實有りて、而る後に之を謂う。文實無ければ、則ち謂う無きなり。敷と美とに若かず。是と謂わば、則ち是れ固より美なり。也と謂わば、則ち是れ美に非ず。謂う無ければ、則ち報ゆるなり。
-
『墨子』經說上兩目、端にして、而る後に可なり。次。厚さ無くして厚し、可なり。法。意と䂓と員と、三なり、倶に以て法と為す可し。佴。然なる者は、民の法の若きなり。彼。凡そ牛と、樞は牛に非ずとは、兩なり、以て非とする無きなり。辯。或いは之を牛と謂い、或いは之を牛に非ずと謂うは、是れ彼を争うなり。是れ倶には當たらず。倶には當たらざれば、必ず或いは當たらず。若かざれば、犬に當たる。為。其の指すを欲して、智、其の害を知らざるは、是れ智の罪なり。若し之を智り、文を慎まば、其の害に遺す無し。而も猶お之を欲せば、則ち之を離る。是れ猶お脯を食らうがごときなり。之を騷るの利害、未だ知らざるなり。欲して騷るは、是れ疑う所を以て欲する所を止めざるなり。廧外の利害、未だ知る可からざるなり。之に趨きて力を得れば則ち趨かざるなり。是れ疑う所を以て欲する所を止むるなり。觀て知を窮めて欲の理に於いてすと為す。脯を食らいて非なり、指して愚に非ざるなり。為す所と為すに與せざる所と相い疑うは、謀に非ざるなり。
-
『墨子』經說下無。南なる者、窮り有れば則ち盡くす可し。窮り無ければ則ち盡くす可からず。窮り有ると窮り無きと未だ智る可からざれば、則ち盡くす可きと盡くす可からざるとも未だ智る可からず。人の之に盈つると否とも未だ智る可からず。而して必ず人の盡くす可きと盡くす可からざるとも亦た未だ智る可からず。而して必ず人を盡く愛す可しとするを誖るとするは、誖るなり。「人、若し盈たずして先ず窮まらば、則ち人に窮り有り。有窮を盡くすに難無し。無窮に盈たば、則ち無窮も盡くるなり。有窮を盡くすに難無し」と。不。其の數を智らずして、惡んぞ民を愛するの盡くを智らんや。或る者は其の問に遺るるなり。盡く人に問わば、則ち盡く其の問う所を愛す。若し其の數を智らずして、之を愛するの盡くを智るに難無し。仁。仁は、愛なり。義は、利なり。愛と利とは、此なり。愛する所と利する所とは、彼なり。愛と利とは相い内外を為さず。愛し利する所も亦た相い外内を為さず。其の仁を内と為し、義を外と為すは、愛と利する所とを舉ぐるなり。是れ狂舉なり。左の目出でて、右の目入るが若し。