正法眼蔵随聞記 / 巻六
古語に云ふ、倉にすむ鼠、食に飢ゑ、田を耕す牛草に飽かずと、云ふ心は、食の中にありながら食にうゑ、草の中に住しながら草に乏し、人もかくのごとし、佛道の中に有りながら道にかなはざるものなり、名利希求の心止まざれば、一生安樂ならざるなり、
新字:古語に云ふ、倉にすむ鼠、食に飢ゑ、田を耕す牛草に飽かずと、云ふ心は、食の中にありながら食にうゑ、草の中に住しながら草に乏し、人もかくのごとし、仏道の中に有りながら道にかなはざるものなり、名利希求の心止まざれば、一生安楽ならざるなり、
書き下し
古語に云ふ、倉にすむ鼠、食に飢ゑ、田を耕す牛草に飽かずと、云ふ心は、食の中にありながら食にうゑ、草の中に住しながら草に乏し、人もかくのごとし、仏道の中に有りながら道にかなはざるものなり、名利希求の心止まざれば、一生安楽ならざるなり、
現代語訳
古語に言う、倉に住む鼠が食に飢え、田を耕す牛が草に飽かない、と。その心は、食の中にありながら食に飢え、草の中に住みながら草に乏しい、ということである。人もこのとおりである。仏道の中にありながら道に叶わない者である。名利を希い求める心が止まなければ、一生安楽ではないのである。
解説
倉の鼠と田の牛という二つの像で、環境が満ちていても飢える者を描く。前段で場に入ることの力を説いた直後にこれを置くところが利いていて、入っただけでは足りないと釘を刺す。飢えの原因は外にはなく、名利を求める心が止まないことだと結ばれる。
この章句が説くこと
名利飢環境安楽足るを知る道
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論語・泰伯篇子曰く、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道有れば則ち見れ、道無ければ則ち隠る。邦に道有りて、貧しく且つ賤しきは、恥なり。邦に道無くして、富み且つ貴きは、恥なり。
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