都鄙問答 / 卷之二・鬼神ヲ遠ト云事ヲ問ノ段
曰、貴人ヲ輕ズルニ似タリ、何トテ左樣ノコトノイワルベキヤ、答、貴人ニ云レザル不義ヲ以テ、淸淨ノ神明ニ祈ヲ爲、願ヒノ通ニ成下サレナバ、鳥居ヤ社ノ脩覆致シ奉ラント云時、鳥居ヤ脩覆ニ迷ヒ玉フアサマシキ神有ベキヤ、然ルヲ非禮ノ物ヲ推テ捧ゲ、神明ヲ穢奉リ、終ニハ神罰ヲ受ベシ、恐ルベキコトナリ、「心ダニマコトノ道ニカナヒナバイノラズトテモ神ヤマモラン」トノ御神詠モアルゾカシ、子路、孔子ノ病ヲ禱コトヲ請、子曰、丘之禱久ト、禱ルトノ玉フハ、誠ノ道ニ合ヘルコトナリ、誠ニ合ハヾ、何ゾ祈コトアランヤ、然ルヲ我朝ノ神道ニ違フトハ如何ナルコトゾ、凡テ聖人ノ書ハ、箇樣ノ迷ヒヲ解ベキ爲ノ書ナリ、書ニ依テ迷ハヾ、
新字:曰、貴人ヲ軽ズルニ似タリ、何トテ左様ノコトノイワルベキヤ、答、貴人ニ云レザル不義ヲ以テ、清浄ノ神明ニ祈ヲ為、願ヒノ通ニ成下サレナバ、鳥居ヤ社ノ脩覆致シ奉ラント云時、鳥居ヤ脩覆ニ迷ヒ玉フアサマシキ神有ベキヤ、然ルヲ非礼ノ物ヲ推テ捧ゲ、神明ヲ穢奉リ、終ニハ神罰ヲ受ベシ、恐ルベキコトナリ、「心ダニマコトノ道ニカナヒナバイノラズトテモ神ヤマモラン」トノ御神詠モアルゾカシ、子路、孔子ノ病ヲ祷コトヲ請、子曰、丘之祷久ト、祷ルトノ玉フハ、誠ノ道ニ合ヘルコトナリ、誠ニ合ハヾ、何ゾ祈コトアランヤ、然ルヲ我朝ノ神道ニ違フトハ如何ナルコトゾ、凡テ聖人ノ書ハ、箇様ノ迷ヒヲ解ベキ為ノ書ナリ、書ニ依テ迷ハヾ、
書き下し
曰、貴人を軽ずるに似たり。何とて左様のことのいわるべきや。答、貴人に云れざる不義を以て、清浄の神明に祈を為、願ひの通に成下されなば、鳥居や社の脩覆致し奉らんと云時、鳥居や脩覆に迷ひ玉ふあさましき神有べきや。然るを非礼の物を推て捧げ、神明を穢奉り、終には神罰を受べし。恐るべきことなり。「心だにまことの道にかなひなばいのらずとても神やまもらん」との御神詠もあるぞかし。子路、孔子の病を祷ことを請。子曰、丘之祷久と。祷るとのたまふは、誠の道に合へることなり。誠に合はゞ、何ぞ祈ことあらんや。然るを我朝の神道に違ふとは如何なることぞ。凡て聖人の書は、箇様の迷ひを解べき為の書なり。書に依て迷はゞ、
現代語訳
その人「それは貴人を軽んじるようなものです。どうしてそんなことが言えましょう。」梅岩「貴人にさえ言えない不義を持って清浄な神々に祈り、願いどおりにしてくだされば鳥居や社の修繕をいたしましょうと言うとき、鳥居や修繕に心を迷わされるようなあさましい神がいるでしょうか。それなのに非礼の物を押しつけて捧げ、神々を穢し申し上げれば、ついには神罰を受けるでしょう。恐るべきことです。『心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん』という御神詠もあるではありませんか。子路が孔子の病気平癒を祈りたいと願ったとき、孔子は『丘の祷ること久し』とおっしゃいました。祷るというのは、誠の道にかなっていることです。誠にかなっていれば、何を祈る必要があるでしょう。それを、わが国の神道に背くとはどういうことでしょう。およそ聖人の書は、こういう迷いを解くための書です。書によって迷うのなら、」
解説
この章句が説くこと
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『武士道』第六章 禮儀・誠を語ると礼を守ると試みに日本人に向ひ、誠を語ると、礼を守ると、いづれか重きやと問はば、彼れ必ずや、全く米人に相反するの辞を以て答とせんと云ふものあり。其説の当否はしばらく之を置き、次章『至誠』を説くの項下に於て、之に論及するものあらん。
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呂氏春秋・士容②齊に善く狗を相する者有り。其の鄰假いて以て鼠を取るの狗を買わんとす。期年にして乃ち之を得て、曰く、「是れ良狗なり。」其の鄰、之を畜うこと數年なれども、鼠を取らず。以て相する者に告ぐ。相する者曰く、「此れ良狗なり。其の志は獐麋豕鹿に在り、鼠に在らず。其の鼠を取らんことを欲せば、則ち之に桎せよ。」其の鄰、其の後ろ足に桎すれば、狗乃ち鼠を取る。夫れ驥驁の氣、鴻鵠の志、人心に諭らるる者有るは誠なればなり。人も亦た然り。誠之れ有れば則ち神、人に應ず。言豈に以て之を諭すに足らんや。此を不言の言と謂うなり。
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荀子・不苟篇君子の心を養うは誠より善きは莫し。誠を致さば則ち它事無し。唯だ仁のみ之れ守と為し、唯だ義のみ之れ行と為す。心を誠にして仁を守れば則ち形れ、形るれば則ち神なり、神なれば則ち能く化す。心を誠にして義を行なえば則ち理あり、理あれば則ち明らかなり、明らかなれば則ち能く変ず。変化代わる代わる興る、之を天徳と謂う。天は言わずして人は高きを推し、地は言わずして人は厚きを推し、四時は言わずして百姓は期す。夫れ此れ常有るは、其の誠を至せる者を以てなり。君子の至徳は、嘿然として喩り、未だ施さずして親しみ、怒らずして威あり。夫れ此れ命に順うは、其の独りを慎む者を以てなり。善の道を為すや、誠ならざれば則ち独ならず、独ならざれば則ち形れず、形れざれば則ち心に作り、色に見れ、言に出づと雖も、民は猶お未だ従わざるが若し。従うと雖も必ず疑う。天地は大と為すも、誠ならざれば則ち万物を化する能わず。聖人は知と為すも、誠ならざれば則ち万民を化する能わず。父子は親と為すも、誠ならざれば則ち疏し。君上は尊と為すも、誠ならざれば則ち卑し。夫れ誠なる者は、君子の守る所にして、政事の本なり。唯だ居る所にして其の類を以て至る。之を操れば則ち之を得、之を舎つれば則ち之を失う。操りて之を得れば則ち軽し、軽ければ則ち独行す。独行して舎てざれば、則ち済る。済りて材尽き、長く遷りて其の初めに反らざれば、則ち化す。
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言志四録・南洲手抄意の誠否は、須らく夢寐中の事に於て之を験すべし。
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論語・八佾篇祭ること在るが如く。神を祭ること神在るが如し。子曰く、『吾、祭に与らざれば、祭らざるが如し。』
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『武士道』第七章 至誠信實・礼に過ぐれば諂いとなる礼もし誠を欠かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『礼に過ぐれば諂ひとなる』と。又た菅公が誠の歌に、『心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん』とあるは、ポローニアスが、『自から已に誠なるべし。さらば人に誠無き能はず』との訓言に比するに、義はなはだ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を帰し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと為す』と曰ひ、且つ流麗快達の弁を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動かさずして変じ、無為にして成すと説く。其旨の深玄にして神秘の妙域に騁するより、人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトン学説の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。