臣軌 / 卷上 公正章
天無私覆、地無私載。日月無私燭、四時無私為。忍所私而行大義、可謂公矣。智而用私、不若愚而用公。人臣之公者、理官事則不營私家、在公門則不言貨利、當公法則不阿親戚、奉公舉賢則不避仇讎。忠於事君、仁於利下。推之以恕道、行之以不黨、伊、呂是也。故顯名存於今、是之謂公也。
新字:天無私覆、地無私載。日月無私燭、四時無私為。忍所私而行大義、可謂公矣。智而用私、不若愚而用公。人臣之公者、理官事則不営私家、在公門則不言貨利、当公法則不阿親戚、奉公舉賢則不避仇讎。忠於事君、仁於利下。推之以恕道、行之以不党、伊、呂是也。故顕名存於今、是之謂公也。
書き下し
天に私覆無く、地に私載無し。日月に私燭無く、四時に私為無し。私する所を忍びて大義を行う、公と謂うべし。智にして私を用うるは、愚にして公を用うるに若かず。人臣の公なる者は、官事を理むれば則ち私家を営まず、公門に在れば則ち貨利を言わず、公法に当たれば則ち親戚に阿らず、公を奉じ賢を挙ぐれば則ち仇讎を避けず。君に事うるに忠、下を利するに仁。これを推すに恕道を以てし、これを行うに不党を以てす。伊・呂これなり。故に顕名は今に存す、これをこれ公と謂うなり。
現代語訳
天は私して覆うことがなく、地は私して載せることがない。日月は私して照らすことがなく、四季は私して巡ることがない。私したい気持ちを抑えて大義を行う、これを公という。知恵があって私を用いるのは、愚かであっても公を用いるのに及ばない。臣下が公であるとは、役所の事を処理するときに自分の家の利を営まず、公の場では利益の話をせず、公の法に当たっては親戚に手心を加えず、公のために賢者を挙げるときは仇敵さえ避けないことだ。君に仕えるには忠、下を利するには仁。恕の道でこれを推し進め、党を組まずに行う。伊尹と呂尚がそれである。だから名が今に残っている。これを公というのである。
解説
公の定義が、四つの禁止として具体的に示される。役所の事で自分の家の利を営まない、公の場で利益の話をしない、法を適用するとき親戚に手心を加えない、人を挙げるとき仇敵さえ避けない。とくに四つ目が難しい。嫌いな相手を能力で挙げられるかどうかが、公私の分かれ目になる。そして「智にして私を用うるは、愚にして公を用うるに若かず」——賢くて私する者より、愚かでも公する者のほうが上だ、と。能力より姿勢を上に置く判断である。冒頭で天地日月を引くのは、公が特別な徳ではなく自然の在り方だと示すためだろう。
この章句が説くこと
公正章天に私覆無し智にして私を用うるは愚にして公を用うるに若かず仇讎を避けず公平無私
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