説苑 / 奉使
梁王贅其群臣而議其過,任座進諫曰:「主君國廣以大,民堅而眾,國中無賢人辯士,奈何?」王曰:「寡人國小以狹,民弱臣少,寡人獨治之,安所用賢人辯士乎?」任座曰:「不然,昔者齊無故起兵攻魯,魯君患之,召其相曰:『為之奈何?』相對曰:『夫柳下惠少好學,長而嘉智,主君試召使於齊。』魯君曰:『吾千乘之主也,身自使於齊,齊不聽。夫柳下惠特布衣韋帶之士也,使之又何益乎?』相對曰:『臣聞之,乞火不得不望其炮矣。今使柳下惠於齊,縱不解於齊兵,終不愈益攻於魯矣。』魯君乃曰:『然乎?』相即使人召柳下惠來。入門,袪衣不趨。魯君避席而立,曰:『寡人所謂飢而求黍稷,渴而穿井者,未嘗能以觀喜見子。今國事急,百姓恐懼,願藉子大夫使齊。』柳下惠曰:『諾。』乃東見齊侯。齊侯曰:『魯君將懼乎?』柳下惠曰:『臣君不懼。』齊侯忿然怒曰:『吾望而魯城,芒若類失亡國,百姓發屋伐木以救城郭,吾視若魯君類吾國。子曰不懼,何也?』柳下惠曰:『臣之君所以不懼者,以其先人出周,封於魯,君之先君亦出周,封於齊,相與出周南門,刳羊而約曰:「自後子孫敢有相攻者,令其罪若此刳羊矣。」臣之君固以刳羊不懼矣,不然,百姓非不急也。』齊侯乃解兵三百里。夫柳下惠特布衣韋帶之士,至解齊,釋魯之難,奈何無賢士聖人乎?」
新字:梁王贅其群臣而議其過,任座進諫曰:「主君国広以大,民堅而衆,国中無賢人弁士,奈何?」王曰:「寡人国小以狭,民弱臣少,寡人独治之,安所用賢人弁士乎?」任座曰:「不然,昔者斉無故起兵攻魯,魯君患之,召其相曰:『為之奈何?』相対曰:『夫柳下恵少好学,長而嘉智,主君試召使於斉。』魯君曰:『吾千乗之主也,身自使於斉,斉不聴。夫柳下恵特布衣韋帯之士也,使之又何益乎?』相対曰:『臣聞之,乞火不得不望其炮矣。今使柳下恵於斉,縦不解於斉兵,終不愈益攻於魯矣。』魯君乃曰:『然乎?』相即使人召柳下恵来。入門,袪衣不趨。魯君避席而立,曰:『寡人所謂飢而求黍稷,渇而穿井者,未嘗能以観喜見子。今国事急,百姓恐懼,願藉子大夫使斉。』柳下恵曰:『諾。』乃東見斉侯。斉侯曰:『魯君将懼乎?』柳下恵曰:『臣君不懼。』斉侯忿然怒曰:『吾望而魯城,芒若類失亡国,百姓発屋伐木以救城郭,吾視若魯君類吾国。子曰不懼,何也?』柳下恵曰:『臣之君所以不懼者,以其先人出周,封於魯,君之先君亦出周,封於斉,相与出周南門,刳羊而約曰:「自後子孫敢有相攻者,令其罪若此刳羊矣。」臣之君固以刳羊不懼矣,不然,百姓非不急也。』斉侯乃解兵三百里。夫柳下恵特布衣韋帯之士,至解斉,釈魯之難,奈何無賢士聖人乎?」
書き下し
梁王其の群臣を贅して其の過ちを議す。任座進み諫めて曰く、「主君の國は廣くして以て大なり、民は堅くして眾し、國中賢人辯士無くんば奈何せん。」王曰く、「寡人の國は小にして以て狹し、民は弱く臣は少なし、寡人獨り之を治む、安んぞ賢人辯士を用うる所あらんや。」任座曰く、「然らず。昔者齊故無くして兵を起こし魯を攻む。魯君之を患い、其の相を召して曰く、『之を爲すこと奈何せん。』相對えて曰く、『夫れ柳下惠少くして學を好み、長じて智に嘉し、主君試みに召して齊に使いせしめよ。』魯君曰く、『吾千乘の主なり、身自ら齊に使いするも、齊聽かず。夫れ柳下惠は特だ布衣韋帶の士なり、之を使いせしむるも又た何の益あらんや。』相對えて曰く、『臣之を聞く、火を乞う者は其の炮るを望まざるを得ずと。今柳下惠を齊に使いせしめば、縱い齊の兵を解かざるも、終に愈々魯を攻むるに益さざらん。』魯君乃ち曰く、『然らんか。』相即ち人をして柳下惠を召し來らしむ。門に入り、衣を袪げて趨らず。魯君席を避けて立ちて曰く、『寡人謂う所の飢えて黍稷を求め、渴して井を穿つ者、未だ嘗て能く以て喜びて子を見るを得ず。今國事急にして、百姓恐懼す、願わくは子大夫を藉りて齊に使いせしめん。』柳下惠曰く、『諾。』乃ち東のかた齊侯に見ゆ。齊侯曰く、『魯君將に懼れんとするか。』柳下惠曰く、『臣の君懼れず。』齊侯忿然として怒りて曰く、『吾魯の城を望むに、芒として國を失うに類するが若し、百姓屋を發き木を伐りて以て城郭を救う、吾視るに魯君の若きは吾が國に類す。子懼れずと曰うは何ぞや。』柳下惠曰く、『臣の君の懼れざる所以は、其の先人周より出でて、魯に封ぜられ、君の先君も亦た周より出でて、齊に封ぜられ、相與に周の南門を出で、羊を刳きて約して曰く、「自後子孫敢えて相攻むる者有らば、其の罪をして此の刳羊の若くならしめん」と。臣の君固より刳羊を以て懼れざるなり。然らずんば、百姓急ならざるに非ざるなり。』齊侯乃ち兵を解くこと三百里。夫れ柳下惠特だ布衣韋帶の士のみ、齊を解き、魯の難を釋くに至る、奈何ぞ賢士聖人無からんや。」
現代語訳
梁王は群臣を集めて自らの過ちについて議論させた。任座が進み出て諫めて言った。『あなた様の国は広く大きく、民は結束して数も多うございます。国中に賢人や弁士がいなかったら、どうなさいますか。』王は言った。『私の国は小さく狭く、民は弱く臣下も少ない。私一人でこれを治めているのに、どうして賢人や弁士を用いる必要があろうか。』任座は言った。『そうではありません。昔、斉が理由もなく兵を起こして魯を攻めました。魯の君主はこれを憂え、宰相を召して言いました。「これをどうしたらよいか。」宰相は答えて言いました。「柳下恵は若い頃から学問を好み、成長してからは知恵に優れております。試しに彼を召して斉への使者とさせてはいかがでしょうか。」魯君は言いました。「私は千乗の国の君主である。私自身が斉に使いしても、斉は聞き入れないだろう。柳下恵はただの無位無官の士にすぎない。彼を使いにやったところで何の益があろうか。」宰相は答えて言いました。「私はこう聞いております。『火を貸してほしいと乞う者は、その火で物が焼けることを期待せずにはいられない』と。今、柳下恵を斉に使いさせれば、たとえ斉の軍を解かせることができなくとも、少なくとも魯への攻撃をますます強めることにはならないでしょう。」魯君はそこで「そうか」と言いました。宰相はすぐに人をやって柳下恵を召し出しました。柳下恵は門を入ると、衣の裾を上げただけで小走りに進み出るような恭しさは見せませんでした。魯君は席を外して立ち上がり、言いました。「私が言うところの、飢えて初めて穀物を求め、渇いて初めて井戸を掘るというのは、まさに今のことです。あなたに喜んでお目にかかる機会はこれまでありませんでした。今、国家の事態は切迫し、民は恐れおののいております。どうかあなたのお力をお借りして斉への使者としたいのです。」柳下恵は「承知しました」と言い、東へ行って斉の君主に会いました。斉侯は言いました。「魯の君主はさぞ恐れているだろうな。」柳下恵は言いました。「私の主君は恐れておりません。」斉侯は怒って言いました。「私が魯の城を眺めると、まるで国を失いそうな有様で、民は家を壊し木を伐り倒して城壁の補強に充てている。私が見るに魯の君主はまさに我が国と同じような状況だ。それなのにあなたは恐れていないと言う、それはどういうことか。」柳下恵は言いました。「私の主君が恐れない理由は、私どもの遠祖が周から出て魯に封じられ、あなた様の先君もまた周から出て斉に封じられたとき、共に周の南門を出て、羊を裂いて盟約を結び、『これより後、子孫にしてあえて互いに攻め合う者があれば、その罪はこの裂かれた羊のようになるであろう』と誓ったからです。私の主君はもとよりその羊を裂いた盟約があるからこそ恐れていないのです。とはいえ、民が危急でないというわけではございません。」斉侯はそこで軍を三百里退かせました。柳下恵はただの無位無官の士にすぎませんでしたが、斉の軍を解かせ、魯の危難を解くに至りました。それなのにどうして賢士や聖人が不要だなどと言えましょうか。』
解説

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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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