戦国策 / 王立周紹為傅
王立周紹為傅,曰:「寡人始行縣,過番吾,當子為子之時,踐石以上者皆道子之孝。故寡人問子以璧,遺子以酒食,而求見子。子謁病而辭。人有言子者曰:『父之孝子,君之忠臣也。』故寡人以子之知慮,為辨足以道人,危足以持難,忠可以寫意,信可以遠期。詩云:『服難以勇,治亂以知,事之計也。立傅以行,教少以學,義之經也。循計之事,失而累;訪議之行,窮而不憂。』故寡人欲子之胡服以傅王乎。」周紹曰:「王失論矣,非賤臣所敢任也。」王曰:「選子莫若父,論臣莫若君。君,寡人也。」周紹曰:「立傅之道六。」王曰:「六者何也?」周紹曰:「知慮不躁達於變,身行寬惠達於禮,威嚴不足以易於位,重利不足以變其心,恭於教而不快,和於下而不危。六者,傅之才,而臣無一焉。隱中不竭,臣之罪也。傅命僕官,以煩有司,吏之恥也。王請更論。」王曰:「知此六者,所以使子。」周紹曰:「乃國未通於王胡服。雖然,臣,王之臣也,而王重命之,臣敢不聽令乎?」再拜,賜胡服。王曰:「寡人以王子為子任,欲子之厚愛之,無所見醜。御道之以行義,勿令溺苦於學。事君者,順其意,不逆其志。事先者,明其高,不倍其孤。故有臣可命,其國之祿也。子能行是,以事寡人者畢矣。書云:『去邪無疑,任賢勿貳。』寡人與子,不用人矣。」遂賜周紹胡服衣冠,具帶黃金師比,以傅王子也。
新字:王立周紹為傅,曰:「寡人始行県,過番吾,当子為子之時,践石以上者皆道子之孝。故寡人問子以璧,遺子以酒食,而求見子。子謁病而辞。人有言子者曰:『父之孝子,君之忠臣也。』故寡人以子之知慮,為弁足以道人,危足以持難,忠可以写意,信可以遠期。詩云:『服難以勇,治乱以知,事之計也。立傅以行,教少以学,義之経也。循計之事,失而累;訪議之行,窮而不憂。』故寡人欲子之胡服以傅王乎。」周紹曰:「王失論矣,非賤臣所敢任也。」王曰:「選子莫若父,論臣莫若君。君,寡人也。」周紹曰:「立傅之道六。」王曰:「六者何也?」周紹曰:「知慮不躁達於変,身行寛恵達於礼,威厳不足以易於位,重利不足以変其心,恭於教而不快,和於下而不危。六者,傅之才,而臣無一焉。隠中不竭,臣之罪也。傅命僕官,以煩有司,吏之恥也。王請更論。」王曰:「知此六者,所以使子。」周紹曰:「乃国未通於王胡服。雖然,臣,王之臣也,而王重命之,臣敢不聴令乎?」再拝,賜胡服。王曰:「寡人以王子為子任,欲子之厚愛之,無所見醜。御道之以行義,勿令溺苦於学。事君者,順其意,不逆其志。事先者,明其高,不倍其孤。故有臣可命,其国之禄也。子能行是,以事寡人者畢矣。書云:『去邪無疑,任賢勿貳。』寡人与子,不用人矣。」遂賜周紹胡服衣冠,具帯黄金師比,以傅王子也。
書き下し
王周紹を立てて傅と爲し、曰く、「寡人始めて縣を行きて、番吾を過ぐるに、子子たるの時に當たり、石を踐みて以上なる者皆子の孝を道う。故に寡人子に問うに璧を以てし、子に遺るに酒食を以てし、子に見えんことを求む。子病を謁して辭す。人子を言う者有りて曰く、『父の孝子は、君の忠臣なり。』故に寡人子の知慮を以て、辨は以て人を道くに足り、危は以て難を持するに足り、忠は以て意を寫す可く、信は以て遠く期す可しと爲す。詩に云う、『難に服するに勇を以てし、亂を治むるに知を以てするは、事の計なり。傅を立つるに行を以てし、少を教うるに學を以てするは、義の經なり。計を循うの事は、失いて累なり、議を訪うの行は、窮まりて憂えず。』故に寡人子の胡服して以て王を傅けんことを欲す。」周紹曰く、「王論を失せり、賤臣の敢えて任ずる所に非ず。」王曰く、「子を選ぶは父に若くは莫く、臣を論ずるは君に若くは莫し。君は寡人なり。」周紹曰く、「傅を立つるの道六つ。」王曰く、「六つとは何ぞや。」周紹曰く、「知慮躁がずして變に達し、身行寬惠にして禮に達し、威嚴以て位を易うるに足らず、重利以て其の心を變うるに足らず、教に恭しくして快からず、下に和して危うからず。六つの者は、傅の才にして、臣一つも無し。中を隱して竭くさざるは、臣の罪なり。傅の命僕官なるは、以て有司を煩わす、吏の恥なり。王請う更に論ぜよ。」王曰く、「此の六つの者を知る、子を使う所以なり。」周紹曰く、「乃ち國未だ王の胡服に通ぜず。然りと雖も、臣は、王の臣なり、而して王重ねて之に命ず、臣敢えて令を聽かざらんや。」再拜す、胡服を賜う。王曰く、「寡人王子を以て子に任じ、子の之を厚く愛して、醜を見る所無からんことを欲す。之を御道するに義を行うを以てし、學に溺苦せしむること勿かれ。君に事うる者は、其の意に順いて、其の志に逆らわず。先に事うる者は、其の高きを明らかにして、其の孤に倍かず。故に臣命ず可き有るは、其の國の祿なり。子能く是を行わば、以て寡人に事うる者畢れり。書に云う、『邪を去りて疑う無かれ、賢に任じて貳する勿かれ』と。寡人子と、人を用いざるなり。」遂に周紹に胡服の衣冠、帶を具え黃金師比を賜い、以て王子を傅せしむ。
現代語訳
王は周紹を立てて(王子の)傅役とし、こう言った。「私が初めて地方巡視に出かけ、番吾を通りかかったとき、お前がまだ子どもだった時分に、あの石段を踏んで上っていく姿を見た人々は皆、お前の孝行ぶりを口にしていた。それゆえ私はお前に璧を贈って様子を尋ね、酒食を贈り、お前に会いたいと願った。お前は病と称して辞退した。お前のことを語る人があってこう言った。『親孝行な子は、主君にとっての忠臣となる』と。それゆえ私は、お前の知恵と思慮をもってすれば、その弁舌は人を導くに十分であり、危機に際しても困難に持ちこたえるに十分であり、忠誠は心をそのまま表すことができ、信義は遠い将来まで約束できると考えている。詩にこう言う。『困難に立ち向かうには勇気をもってし、乱れを治めるには知恵をもってするのが、事を成す上での計略である。傅役を立てるには実際の行いをもってし、若者を教えるには学問をもってするのが、正しい道の基本である。計略に従った行いは、たとえ失敗しても連座の憂き目はなく、衆議を尋ねた行動は、行き詰まっても悔いることはない』と。それゆえ私は、お前に胡服を身につけて王子の傅役となってほしいのだ。」周紹は言った。「王のお考えは見当違いです、卑しい私にはとても務まりません。」王は言った。「子を選ぶのに父にまさる者はなく、臣を評価するのに君主にまさる者はない。君主とは、この私のことだ。」周紹は言った。「傅役を立てる道には六つの条件があります。」王は「その六つとは何か」と尋ねた。周紹は言った。「知恵と思慮が浮ついておらず時勢の変化に通じていること、身の行いが寛大で恵み深く礼に通じていること、威厳があっても地位を笠に着ないこと、多くの利益をもってしてもその心が変わらないこと、教えを受けるにあたって謙虚でうぬぼれないこと、目下の者と和やかでありながらも侮られる危うさがないこと。この六つが傅役たる者の資質ですが、私にはその一つもございません。心の内を隠して忠誠を尽くさないのは、臣たる私の罪です。傅役の任が私のような下僕同然の身に及ぶことは、担当の役人たちを煩わせることにもなり、役人としての恥辱でもございます。王、どうか改めてお考えください。」王は言った。「まさにこの六つの条件を理解していること自体が、お前を任命する理由なのだ。」周紹は言った。「ただ国中がいまだ王の胡服の趣旨に通じておりません。とはいえ、私は王の臣下であり、王が重ねてこれをお命じになる以上、私があえて命令に従わずにいられましょうか。」そう言って再拝し、胡服を賜った。王は言った。「私は王子をお前に任せる、お前には彼を厚く愛し、彼が恥をかくことのないようにしてほしい。彼を導くには正しい義を行うことをもってし、学問に溺れて苦しませることのないようにせよ。主君に仕える者は、その意向に従い、その志に逆らってはならない。先代に仕えた者は、その高潔さを明らかにし、その遺児(王子)に背いてはならない。それゆえ、命じるにふさわしい臣がいることは、その国の恵みなのだ。お前がこれを実行できれば、私に仕える務めは全うされたことになる。書経にこう言う、『邪なる者を退けるにためらうな、賢者に任せるなら二心を持つな』と。私はお前について、他の人物を用いるつもりはない。」こうして周紹に胡服の衣冠と帯を整え、黄金の帯留めを賜い、王子の傅役とした。
解説

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