呂氏春秋 / 離俗③
齊、晉相與戰,平阿之餘子亡戟得矛,卻而去,不自快,謂路之人曰:「亡戟得矛,可以歸乎?」路之人曰:「戟亦兵也,矛亦兵也,亡兵得兵,何為不可以歸?」去行,心猶不自快,遇高唐之孤叔無孫,當其馬前曰:「今者戰,亡戟得矛,可以歸乎?」叔無孫曰:「矛非戟也,戟非矛也,亡戟得矛,豈亢責也哉?」平阿之餘子曰:「嘻!還反戰,趨尚及之。」遂戰而死。叔無孫曰:「吾聞之:君子濟人於患,必離其難。」疾驅而從之,亦死而不反。令此將眾,亦必不北矣;令此處人主之旁,亦必死義矣。今死矣而無大功,其任小故也。任小者,不知大也。今焉知天下之無平阿餘子與叔無孫也?故人主之欲得廉士者,不可不務求。
新字:斉、晉相与戦,平阿之余子亡戟得矛,却而去,不自快,謂路之人曰:「亡戟得矛,可以帰乎?」路之人曰:「戟亦兵也,矛亦兵也,亡兵得兵,何為不可以帰?」去行,心猶不自快,遇高唐之孤叔無孫,当其馬前曰:「今者戦,亡戟得矛,可以帰乎?」叔無孫曰:「矛非戟也,戟非矛也,亡戟得矛,豈亢責也哉?」平阿之余子曰:「嘻!還反戦,趨尚及之。」遂戦而死。叔無孫曰:「吾聞之:君子済人於患,必離其難。」疾駆而従之,亦死而不反。令此将眾,亦必不北矣;令此処人主之旁,亦必死義矣。今死矣而無大功,其任小故也。任小者,不知大也。今焉知天下之無平阿余子与叔無孫也?故人主之欲得廉士者,不可不務求。
書き下し
齊・晉相與に戰うや、平阿の餘子、戟を亡い矛得たり。卻きて去り、自ら快からず。路の人に謂いて曰く、「戟を亡い矛を得たり。以て歸る可きか。」路の人曰く、「戟も亦た兵なり。矛も亦た兵なり。兵を亡い兵を得たり。何為れぞ以て歸る可かざらん。」行を去りて、心猶ほ自ら快からず。高唐の孤叔無孫に遇い、其の馬前に當りて曰く、「今者戰いて、戟を亡い矛を得たり。以て歸る可きか。」叔無孫曰く、「矛は戟に非ざるなり。戟は矛に非ざるなり。戟を亡い矛を得たる、豈に責めに亢たらんや。」平阿の餘子曰く、「嘻。還反りて戰わん。趨れば尚ほ之に及ばん。」遂に戰いて死す。叔無孫曰く、「吾之を聞く、君子、人を患いに濟るれば、必ず其の難に離る。」疾驅して之に從い、亦た死して反らず。此をして衆を將いしむれば、亦た必ず北げじ。此をして人主の旁に處らしめば、亦た必ず義に死せん。今死して大功無きは、其の任、小なるが故なり。任、小なる者は、大を知らざるなり。今焉くんぞ天下の平阿の餘子と叔無孫と無きことを知らんや。故に人主の廉士を得んことを欲する者は、求むることを務めざる可からず。
現代語訳
斉と晋が戦ったとき、平阿の若者が戟を失って矛を拾った。退いて陣を離れたが、心が晴れない。道行く人に「戟を失って矛を得た。これで帰ってよいか」と尋ねると、「戟も矛も武器だ。武器を失って武器を得たのだから、帰ってなぜ悪かろう」と言われた。だが立ち去ってもなお気が済まず、高唐の叔無孫に会って同じことを尋ねると、「矛は戟ではなく、戟は矛ではない。戟を失って矛を得たのでは、責めを果たしたことにはなるまい」と答えた。若者は「ああ」と引き返して戦い、ついに戦死した。叔無孫も「君子は人を危難に導いたなら、必ずその難をともにする」と言って馬を駆って後を追い、同じく戦死して帰らなかった。この二人に軍を率いさせれば必ず敗走せず、君主の側に置けば必ず義に殉じるだろう。今回大功がなかったのは任務が小さかったからで、任務が小さい者は大きな務めを知らない。天下に平阿の若者や叔無孫のような者がいないとどうして言えよう。だから君主が廉直の士を得ようとするなら、努めて求めなければならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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呂氏春秋・離謂⑤齊に人に事うる者有り。事うる所、難有れども死せざるなり。故人に塗に遇う。故人曰く、「固に死せざるか。」對えて曰く、「然り。凡そ人に事うるは以て利を爲せばなり。死は利ならず。故に死せず。」故人曰く、「子は尚ほ人を見る可きか。」對えて曰く、「子は死を以て顧って以て人を見る可しと爲すか。」是の者數傳す。其の君長に死せざるは、大不義なり。其の辭は猶ほ服す可からず。辭の以て事を斷ずるに足らざるや、明らかなり。夫れ辭は、意の表なり。其の表を鑒みて其の意を棄つるは、悖れり。故に古の人は、其の意を得れば、則ち其の言を舎つ。言を聽く者は言を以て意を觀るなり。言を聽けども意知る可からざるは、其れ橋言と擇ぶこと無し。
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呂氏春秋・忠廉①士議の辱む可からざるは、之を大とすればなり。之を大とするは、則ち富貴よりも尊ければなり。利は以て其の意を虞すに足らず。名は諸侯為り、實は萬乘を有すと雖も、以て其の心を挺かすに足らず。誠に辱めらるれば、則ち生を樂しむを為す無し。此くの若き人や、勢有れば則ち必ず自ら私せず、官に處れば、則ち必ず汙を為さず、衆を將いれば、則ち必ず撓北せず。忠臣も亦た然り。苟しくも主に便に國に利あれば、敢て辭違すること無く、身を殺し生を出りて以て之に徇う。國に士の此くの若きもの有れば、則ち人有りと謂う可し。此くの若き人は固より得難し。其の患いは、之を得と雖も智らざるに有り。
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呂氏春秋・恃君⑤柱厲叔、莒の敖公に事う。自ら以て知られざると為して、去りて海上に居る。夏日は則ち菱芡を食らい、冬日は則ち橡栗を食らう。莒の敖公に難有り、柱厲叔、其の友に辭して往きて之に死せんとす。其の友曰く、「子自ら以て知られざると為し、故に去る、今又往きて之に死せば、是れ知らるると知られざると異別無きなり。」柱厲叔曰く、「然らず。自ら以て知られざると為し、故に去る。今死して往きて死せずんば、是れ果して我を知れるなり。吾將に之に死して以て後世の人主の其の臣を知らざる者を醜しめんとするなり。人に君たる者の行いを激して、人主の節を厲ます所以なり。行激せられ節厲まさるれば、忠臣、察を得るに幸いす。忠臣察せらるれば則ち君道固し。
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呂氏春秋・貴直④趙簡子、衛の附郭を攻むるに、自ら兵を將う。戰うに及びて、且に遠くに立たんとし、又犀蔽屏櫓の下に居る、之に鼓すれども士起たず。簡子、桴を投じて歎じて曰く、「鳴呼、士の遬弊すること一に此の若きか。」行人燭過、冑を免き戈を横たえて進みて曰く、「亦君の不能有るのみ。士何の弊することか之れ有らん。」簡子艴然として色を作して曰く、「寡人の使う無くして、身自ら是の衆を将いるや、子親しく寡人の無能を謂う。說有らば則ち可なるも、說無くんば則ち死せん。」對えて曰く、「昔吾が先君獻公は位に即きて五年、國を兼ぬること十九、此の士を用いたるなり。惠公は位に即きて二年、淫色暴慢にして、身は玉女を好む。秦人我を襲い、絳を遜去すること七十、此の士を用いたるなり。文公位に即きて二年、之を底すに勇を以てす。故に三年にして士盡く果敢なり。城濮の戰い、五たび荊人を敗り、衛を圍み曹を取り、石社を抜き、天子の位を定め、尊名を天下に成す。此の士を用いたるなり。亦だ君の不能有るのみ。士何の弊することか之れ有らん。」簡子乃ち犀蔽屏櫓を去りて、矢石の及ぶ所に立ち、一鼓して士畢く之に乘ず。簡子曰く、「吾、革車千乘を得ん與りは、行人燭過の一言を聞くに如かず。」行人燭過は能く其の君を諫めたりと謂う可し。戰鬭の上、枹鼓方に用いらる。賞は厚きを加えず、罰は重きを加えざるに、一言にして士皆其の上の為に死するを樂しむ。
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呂氏春秋・愛士③趙簡子、兩白騾を有して甚だ之を愛す。陽城胥渠は廣門の官に處る。夜門を款いて謁げて曰く、主君の臣胥渠疾有り。醫之に教えて曰く、白騾の肝を得れば病は則ち止まん、得ざれば則ち死せん、と。謁者入りて通ず。董安于、側に御し、慍りて曰く、譆、胥渠や、吾が君の騾を期す。請う即ち焉を刑せん、と。簡子曰く、夫れ人を殺して以て畜を活かすは、亦た不仁ならずや。畜を殺して以て人を活かすは、亦た仁ならずや、と。是に於て庖人を召して白騾を殺さしめ、肝を取りて以て陽城胥渠に與う。處ること幾何も無くして、趙、兵を興して翟を攻む。廣門の官、左七百人、右七百人、皆先登して甲首を獲たり。人主其れ胡ぞ以て士を好まざる可けんや。
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呂氏春秋・愛士②昔者、秦の繆公、駕に乘りて車敗を為し、右服失して、埜人之を取る。繆公自ら往きて之を求むるに、埜人方將に之を岐山の陽に食らわんとするを見る。繆公歎じて曰く、駿馬の肉を食らいて、還やかに酒を飲まずんば、余、其の女を傷わんことを恐るるなり、と。是に於て遍く飲ましめて去る。處ること一年、韓原の戰を為す。晉人已に繆公の車を環み、晉の梁由靡已に繆公の左驂を扣え、晉の惠公の右の路石、投を奮いて繆公の甲を撃ち、之に中つる者已に六札なり。埜人の嘗て馬肉を岐山の陽に食らう者三百有餘人、力を畢くして繆公の為に疾やく車下に鬭い、遂に大いに晉に克ち、反て惠公を獲て以て歸る。此れ詩の所謂、君子に君たれば則ち正、以て其の德を行わしめ、賤人に君たれば則ち寬、以て其の力を盡くさしむ、と曰う者なり。人主其れ胡ぞ以て德を行い人を愛することを務めること無かる可けんや。徳を行い人を愛すれば則ち民其の上に親しみ、民其の上に親しめば、則ち皆其の君の為に死することを樂しむ。