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呂氏春秋 / 知接①

人之目以照見之也,以瞑則與不見,同,其所以為照、所以為瞑異。瞑士未嘗照,故未嘗見,瞑者目無由接也。無由接而言見,詤。智亦然,其所以接智、所以接不智同,其所能接、所不能接異。智者其所能接遠也,愚者其所能接近也。所能接近而告之以遠化,奚由相得?無由相得,說者雖工,不能喻矣。戎人見暴布者而問之曰:“何以為之莽莽也?”指麻而示之。怒曰:“孰之壤壤也,可以為之莽莽也?”故亡國非無智士也,非無賢者也,其主無由接故也。無由接之患,自以為智,智必不接。今不接而自以為智,悖。若此則國無以存矣,主無以安矣。智無以接而自知弗智,則不聞亡國,不聞危君。

新字:人之目以照見之也,以瞑則与不見,同,其所以為照、所以為瞑異。瞑士未嘗照,故未嘗見,瞑者目無由接也。無由接而言見,詤。智亦然,其所以接智、所以接不智同,其所能接、所不能接異。智者其所能接遠也,愚者其所能接近也。所能接近而告之以遠化,奚由相得?無由相得,説者雖工,不能喻矣。戎人見暴布者而問之曰:“何以為之莽莽也?”指麻而示之。怒曰:“孰之壤壤也,可以為之莽莽也?”故亡国非無智士也,非無賢者也,其主無由接故也。無由接之患,自以為智,智必不接。今不接而自以為智,悖。若此則国無以存矣,主無以安矣。智無以接而自知弗智,則不聞亡国,不聞危君。

書き下し

人の目は以て照すれば之を見、以て瞑すれば則ち見ざると同じ。其の照を為す所以と、瞑を為す所以とは異なれり。瞑士は未だ嘗て照せず。故に未だ嘗て見ず。瞑とは目由りて接する無きなり。由りて接する無くして見ると言うは、詤なり。智も亦た然り。其の接して智る所以と、接して智らざる所以とは同じ。其の能く接する所と、能く接せざる所とは異なれり。智者は其の能く接する所は遠く、愚者は其の能く接する所は近し。能く接する所近くして、之に告ぐるに遠化を以てせば、奚に由りて相得ん。由りて相得ること無ければ、説く者工なりと雖も、喩すこと能わず。戎人、布を暴す者を見て、之に問いて曰く、「何を以て之の莽莽たるを為るや。」麻を指して之に示す。怒りて曰く、「孰か之の壤壤たるや、以て之の莽莽たるを為る可けんや。」故に亡國にも智士無きに非ず、賢者無きに非ざるなり。其の主由りて接する無きが故なり。由りて接する無きの患いは、自ら以て智と為す。智とすれば必ず接せず。今接せずして自ら以て智と為すは、悖れり。此くの若くなれば則ち國以て存すること無く、主以て安んずること無し。智以て接する無くして、自ら智ならざるを知れば、則ち國を亡ぼすを聞かず、君を危うくするを聞かず。

現代語訳

人の目は光があれば物を見るが、目を閉じれば見えないのと同じである。見る働きと見えない状態とは、その仕組みが異なる。目の見えない人はこれまで光を受けたことがなく、だから物を見たことがない。見えないとは、目が対象に接する手立てがないことだ。接する手立てもなく見えると言うのは、たわごとである。知(認識)も同じで、接して分かる仕組みと、接しても分からない仕組みは同じ働きだが、接しうる範囲と接しえない範囲は違う。知者は接しうる範囲が遠くまで及び、愚者は近くにとどまる。近くしか及ばぬ者に遠大な道理を告げても、どうして互いに通じ合えよう。通じ合えなければ、説く者がいかに巧みでも理解させられない。戎の人が布を晒す者を見て『どうやってこの長々としたものを作るのか』と問い、麻を指して示されると、怒って『こんな細かく入り乱れたもので、どうしてあの長い布が作れるか』と言った。だから亡国にも知者や賢者がいないのではなく、君主にそれを受け止める手立てがないのだ。その害は、自分を賢いと思い込むことにある。賢いと思えば必ず人と接し受け入れない。接しもせず自分を賢いと思うのは道理に背く。こうなれば国は存続せず君主も安泰でない。受け止める力がなくとも、自分が賢くないと自覚すれば、国を滅ぼしたり君を危うくしたりはしないのである。

解説

認識には対象と接する手立てが必要で、器の狭い者に遠大な道理を説いても通じないと論じる篇の総論です。盲人が物を見られない比喩や、麻と麻布の関係を解せない戎人の話で、受け止める側の限界を示します。亡国に賢者がいないのではなく、君主が受け止められないのが問題だとします。最大の害は、自分を賢いと思い込んで人を受け入れないことです。無知の自覚さえあれば致命傷は避けられるという指摘は、傾聴と自己認識の大切さを説く現代のリーダー論にも重なります。

この章句が説くこと

知接認識戎人傾聴無知の自覚君主の器

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