呂氏春秋 / 長見②
荊文王曰:“莧譆數犯我以義,違我以禮,與處則不安,曠之則不穀得焉,不以吾身爵之,後世有聖人,將以非不穀”,於是爵之五大夫。“申侯伯善持養吾意,吾所欲則先我為之,與處則安,曠之而不穀喪焉,不以吾身遠之,後世有聖人,將以非不穀”,於是送而行之。申侯伯如鄭,阿鄭君之心,先為其所欲,三年而知鄭國之政也,五月而鄭人殺之。是後世之聖人,使文王為善於上世也。
新字:荊文王曰:“莧譆数犯我以義,違我以礼,与処則不安,曠之則不穀得焉,不以吾身爵之,後世有聖人,将以非不穀”,於是爵之五大夫。“申侯伯善持養吾意,吾所欲則先我為之,与処則安,曠之而不穀喪焉,不以吾身遠之,後世有聖人,将以非不穀”,於是送而行之。申侯伯如鄭,阿鄭君之心,先為其所欲,三年而知鄭国之政也,五月而鄭人殺之。是後世之聖人,使文王為善於上世也。
書き下し
荊の文王曰く、「莧譆數々我を犯すに義を以てし、我に違うに禮を以てす。與に處れば則ち安からざるも、之を曠しくすれば而ち不穀得。吾が身を以て之を爵せずんば、後世聖人有りて、將に以て不穀を非とせんとす。」是に於て之を五大夫に爵す。「申侯伯は善く吾が意を持養す、吾が欲する所は則ち我に先じて之を為す。與に處れば則ち安きも、之を曠しくすれば而ち不穀喪う。吾が身を以て之を遠ざけずんば、後世聖人有りて、將に以て不穀を非とせんとす。」是に於て送りて之を行らしむ。申侯伯、鄭に如き、鄭君の心に阿り、先づ其の欲する所を為す。三年にして、鄭國の政を知るも、五月にして鄭人之を殺せり。是れ後世の聖人、文王をして善を上世に為さしめしなり。
現代語訳
楚の文王が言いました、「莧譆はしばしば義をもって私を諫め、礼をもって私に逆らう。一緒にいると気詰まりだが、彼を遠ざければ私はよいものを得る。私自身の代で彼に爵位を与えておかなければ、後世に聖人が現れて、この私を非難するだろう」。そこで莧譆を五大夫に取り立てました。また言いました、「申侯伯は私の気持ちをよく汲んで機嫌をとり、私の望むことを先回りして行う。一緒にいると心地よいが、彼を長く側に置けば私は正しい道を失う。私自身の代で彼を遠ざけておかなければ、後世に聖人が現れて、この私を非難するだろう」。そこで送り出して立ち去らせました。申侯伯は鄭に行き、鄭君の心に取り入り、その望むことを先回りして行いました。三年で鄭の国政を牛耳りましたが、五か月後に鄭の人々に殺されました。これは後世の聖人にならい、文王が生前によいことを行ったのです。
解説
この章句が説くこと
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史記 趙世家襄子、伯魯の立たざるが為に、子を立つるを肯ぜず、且つ必ず位を伯魯の子代の成君に伝へんと欲す。成君先に死す。乃ち代の成君の子浣を取りて立てて太子と為す。襄子立ちて三十三年にして卒し、浣立つ、是を献侯と為す。献侯少くして位に即き、中牟に治す。襄子の弟桓子、献侯を逐ひ、自ら代に立つ。一年にして卒す。国人曰く、桓子の立つは襄子の意に非ずと。乃ち共に其の子を殺して復た献侯を迎へ立つ。十年、中山の武公初めて立つ。十三年、平邑に城く。十五年、献侯卒し、子烈侯籍立つ。烈侯元年、魏の文侯中山を伐ち、太子撃をして之を守らしむ。六年、魏・韓・趙皆相立ちて諸侯と為る。献子を追尊して献侯と為す。烈侯音を好む。相国公仲連に謂ひて曰く、「寡人愛する有り、以て之を貴くすべきか」と。公仲曰く、「之を富ますは可なり。之を貴くするは則ち否なり」と。烈侯曰く、「然り。夫の鄭の歌者槍・石の二人、吾之に田を賜はん、人ごとに万畝」と。公仲曰く、「諾」と。与へず。居ること一月、烈侯代より来り、歌者の田を問ふ。公仲曰く、「求むれども、未だ可なる者有らず」と。頃有りて、烈侯復た問ふ。公仲終に与へず、乃ち疾と称して朝せず。番吾君代より来り、公仲に謂ひて曰く、「君実に善を好めども、未だ持する所を知らず。今公仲趙に相たること、今に於て四年、亦士を進むること有るか」と。公仲曰く、「未だし」と。番吾君曰く、「牛畜・荀欣・徐越皆可なり」と。公仲乃ち三人を進む。朝するに及び、烈侯復た問ふ、「歌者の田何如」と。公仲曰く、「方に其の善き者を択ばしむ」と。牛畜、烈侯に侍するに仁義を以てし、約するに王道を以てす。烈侯逌然たり。明日、荀欣侍し、選練して賢を挙げ、官に任じて能を使ふを以てす。明日、徐越侍し、財を節し用を倹にし、功徳を察度するを以てす。与する所充たざる無し。君説ぶ。烈侯使をして相国に謂はしめて曰く、「歌者の田は且く止めよ」と。
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史記 楚元王世家王純立ち、地節二年、中人上書して楚王の謀反を告ぐ、王自殺し、国除かれ、漢に入りて彭城郡と為る。趙王劉遂は、其の父は高祖の中子、名は友、謚して「幽」と曰ふ。幽王憂ひを以て死す、故に「幽」と為す。高后呂禄を趙に王とす、一歳にして高后崩ず。大臣諸呂呂禄等を誅し、乃ち幽王の子遂を立てて趙王と為す。孝文帝即位して二年、遂の弟辟彊を立て、趙の河間郡を取りて河間王と為す、[是れ]を文王と為す。立ちて十三年にして卒し、子哀王福立つ。一年にして卒し、子無く、後を絶ち、国除かれ、漢に入る。遂既に趙に王たること二十六年、孝景帝の時晁錯に坐して適を以て趙王の常山の郡を削らる。呉楚反き、趙王遂与に合謀して兵を起こす。其の相建徳・内史王悍諫む、聴かず。遂建徳・王悍を焼殺し、兵を発して其の西界に屯し、呉と倶に西せんことを待たんと欲す。北のかた匈奴に使ひし、与に連和して漢を攻む。漢、曲周侯酈寄をして之を撃たしむ。趙王遂還り、邯鄲に城守し、相距ぐこと七月。呉楚梁に敗れ、西する能はず。匈奴之を聞き、亦た止みて、肯へて漢の辺に入らず。欒布斉を破りて還り、乃ち兵を并せ水を引きて趙の城に灌ぐ。趙の城壊れ、趙王自殺し、邯鄲遂に降る。趙の幽王後を絶つ。太史公曰く、国の将に興らんとするや、必ず禎祥有り、君子用ひられて小人退く。国の将に亡びんとするや、賢人隠れ、乱臣貴し。楚王戊をして申公を刑すること毋く、其の言に遵はしめ、趙をして防与先生に任ぜしめば、豈に簒殺の謀有りて、天下の僇と為らんや。賢人か、賢人か。質其の内に有るに非ずんば、悪んぞ能く之を用ひんや。甚だしいかな、「安危は令を出だすに在り、存亡は任ずる所に在り」と、誠なるかな是の言や。
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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史記 張釈之馮唐列伝上車に就き、釈之を召して参乗せしめ、徐行して、釈之に秦の敝を問ふ。具(つぶさ)に質言を以てす。宮に至り、上、釈之を拝して公車令と為す。
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史記 李斯列伝秦の宗室大臣皆秦王に言ひて曰く、「諸侯の人の来たりて秦に事ふる者は、大抵其の主の為に秦に游間するのみ。請ふ一切客を逐はん」と。李斯の議も亦逐中に在り。斯乃ち書を上りて曰く、臣聞く、吏客を逐ふを議すと。竊かに以て過てりと為す。昔繆公士を求め、西のかた由余を戎に取り、東のかた百里奚を宛に得、蹇叔を宋に迎へ、丕豹・公孫支を晋に来たす。此の五子は、秦に産せず。而して繆公之を用ひ、国を并すこと二十、遂に西戎に霸たり。孝公商鞅の法を用ひ、風を移し俗を易へ、民以て殷盛、国以て富彊、百姓用を楽しみ、諸侯親しみ服し、楚・魏の師を獲、地を挙ぐること千里、今に至るまで治彊なり。恵王張儀の計を用ひ、三川の地を抜き、西のかた巴・蜀を并せ、北のかた上郡を収め、南のかた漢中を取り、九夷を包み、鄢・郢を制し、東のかた成皋の険に拠り、膏腴の壌を割き、遂に六国の従を散じ、之をして西面して秦に事へしむ。功今に施す。昭王范睢を得て、穣侯を廃し、華陽を逐ひ、公室を彊くし、私門を杜ぎ、諸侯を蚕食し、秦をして帝業を成さしむ。此の四君は、皆客の功を以てす。此に由りて之を観れば、客何ぞ秦に負かんや。向に四君をして客を卻けて内れず、士を疏んじて用ひざらしめば、是れ国をして富利の実無く、而して秦をして彊大の名無からしめしならん。今陛下、昆山の玉を致し、隨・和の宝有り、明月の珠を垂れ、太阿の剣を服し、纖離の馬に乗り、翠鳳の旗を建て、霊鼉の鼓を樹つ。此の数宝は、秦一も生ぜず。而して陛下之を説ぶは、何ぞや。必ず秦国の生ずる所にして然る後に可ならば、則ち是れ夜光の璧は朝廷を飾らず、犀象の器は玩好と為らず、鄭・衛の女は後宮に充たず、而して駿良駃騠は外廄に実たず、江南の金錫は用を為さず、西蜀の丹青は采を為さず。
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史記 酈生陸賈列伝酈生食其(れきせいいき)は、陳留高陽の人なり。読書を好み、家貧しく落魄して、以て衣食の業を為す無く、里の監門の吏と為る。然れども県中の賢豪敢へて役せず、県中皆之を狂生と謂ふ。陳勝・項梁等の起こるに及び、諸将の地を徇へて高陽を過ぐる者数十人、酈生其の将皆握齱(あくさく)として苛礼を好み自ら用ひ、大度の言を聴く能はずと聞き、酈生乃ち深く自ら蔵匿す。後に沛公兵を将ゐて地を陳留の郊に略すと聞く。沛公の麾下の騎士、適(たまたま)酈生の里中の子なり、沛公時時邑中の賢士豪俊を問ふ。騎士帰る。酈生見えて之に謂ひて曰く、「吾聞く、沛公は慢にして人を易(あなど)るも、大略多しと。此れ真に吾が従ひて游ばんと願ふ所なり、我が為に先(さきだ)つ莫し。若し沛公に見えなば、謂ひて曰へ、『臣が里中に酈生有り、年六十余、長八尺、人皆之を狂生と謂ふも、生は自ら我は狂生に非ずと謂ふ』と」と。騎士曰く、「沛公は儒を好まず、諸客の儒冠を冠して来たる者あれば、沛公輒ち其の冠を解き、其の中に溲溺(そうでき)す。人と言ふに、常に大いに罵る。未だ儒生を以て説くべからざるなり」と。酈生曰く、「弟(ただ)之を言へ」と。騎士従容として酈生の誡むる所の如く言ふ。沛公高陽の伝舎に至り、人をして酈生を召さしむ。酈生至り、入りて謁す。沛公方に床に倨して両女子をして足を洗はしめ、而して酈生を見る。酈生入り、則ち長揖して拝せず、曰く、「足下は秦を助けて諸侯を攻めんと欲するか。且(はた)諸侯を率ゐて秦を破らんと欲するか」と。沛公罵りて曰く、「豎儒(じゅじゅ)。夫れ天下同じく秦に苦しむこと久し、故に諸侯相率ゐて秦を攻む。何ぞ秦を助けて諸侯を攻むと謂ふや」と。酈生曰く、「必ず徒を聚め義兵を合はせて無道の秦を誅せんとならば、宜しく倨して長者を見るべからず」と。是に於て沛公洗ふを輟め、起ちて衣を摂(ととの)へ、酈生を延きて上坐せしめ、

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