呂氏春秋 / 當染①
墨子見染素絲者而歎曰:「染於蒼則蒼,染於黃則黃,所以入者變,其色亦變,五入而以為五色矣。」故染不可不慎也。
新字:墨子見染素糸者而嘆曰:「染於蒼則蒼,染於黄則黄,所以入者変,其色亦変,五入而以為五色矣。」故染不可不慎也。
書き下し
墨子、素絲を染むる者を見て歎じて曰く、「蒼に染むれば則ち蒼く、黃に染むれば則ち黃となる。入る所以の者變われば、其の色も亦た變わる。五たび入るれば以て五色と為る。故に染は慎まざる可からざるなり。」
現代語訳
墨子は、白い糸を染める者を見て、感嘆して言った。『青の染料に浸せば青く、黄の染料に浸せば黄色くなる。浸す染料が変われば、その色もまた変わる。五回浸せば五色になる。だから、何に染めるかは慎重にしなければならないのだ』と。
解説
この段は、篇「当染」の主題を示す、墨子が糸の染色を見て嘆いた有名な逸話です。白い糸は浸す染料しだいで青にも黄にもなり、五回浸せば五色になる。だから何に染めるかを慎まねばならないと説きます。これは人や国が、誰の影響を受けるか(誰に染まるか)によって善くも悪くもなるという比喩の起点です。呂氏春秋は、この墨子の言葉を導入として、以下の段で君主や人物が受ける感化の重要性を論じていきます。環境や交わる相手の影響力を鋭く捉えた思想です。現代でも、身を置く環境や付き合う人、学ぶ相手の選び方が自分を形づくるという教訓として、そのまま通用します。
この章句が説くこと
当染墨子染色感化環境素絲
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