了凡四訓 / 積善之方・積善の家には必ず餘慶有り
易曰:「積善之家,必有餘慶。」昔顏氏將以女妻叔梁紇,而歷敘其祖宗積德之長,逆知其子孫必有興者。孔子稱舜之大孝,曰:「宗廟饗之,子孫保之。」皆至論也。試以往事徵之。 楊少師榮,建寧人。世以濟渡為生。久雨溪漲,橫流衝毀民居,溺死者順流而下。他舟皆撈取貨物,獨少師曾祖及祖,惟救人,而貨物一無所取。鄉人嗤其愚。逮少師父生,家漸裕,有神人化為道者,語之曰:「汝祖父有陰功,子孫當貴顯,宜葬某地。」遂依其所指而窆之,即今白兔墳也。後生少師,弱冠登第,位至三公,加曾祖、祖、父,如其官。子孫貴盛,至今尚多賢者。
新字:易曰:「積善之家,必有余慶。」昔顔氏将以女妻叔梁紇,而歴敘其祖宗積徳之長,逆知其子孫必有興者。孔子称舜之大孝,曰:「宗廟饗之,子孫保之。」皆至論也。試以往事徴之。 楊少師栄,建寧人。世以済渡為生。久雨渓漲,横流衝毀民居,溺死者順流而下。他舟皆撈取貨物,独少師曽祖及祖,惟救人,而貨物一無所取。郷人嗤其愚。逮少師父生,家漸裕,有神人化為道者,語之曰:「汝祖父有陰功,子孫当貴顕,宜葬某地。」遂依其所指而窆之,即今白兔墳也。後生少師,弱冠登第,位至三公,加曽祖、祖、父,如其官。子孫貴盛,至今尚多賢者。
書き下し
易に曰く、「積善の家には、必ず餘慶有り」と。昔、顏氏將に女を以て叔梁紇に妻はせんとして、歷く其の祖宗の積德の長きを敘べ、逆め其の子孫に必ず興る者有るを知る。孔子、舜の大孝を稱して曰く、「宗廟之を饗け、子孫之を保つ」と。皆な至論なり。試みに往事を以て之を徵せん。 楊少師榮は、建寧の人なり。世々濟渡を以て生と為す。久雨にして溪漲り、橫流民居を衝毀し、溺死する者流れに順ひて下る。他舟は皆な貨物を撈取するに、獨り少師の曾祖及び祖のみ、惟だ人を救ひて、貨物は一も取る所無し。鄉人其の愚を嗤ふ。少師の父生まるるに逮びて、家漸く裕かなり。神人有り化して道者と為り、之に語りて曰く、「汝の祖父に陰功有り、子孫當に貴顯なるべし。宜しく某の地に葬るべし」と。遂に其の指す所に依りて之を窆す。即ち今の白兔墳なり。後に少師を生み、弱冠にして第に登り、位三公に至り、曾祖・祖・父に加ふること、其の官の如し。子孫貴盛にして、今に至るまで尚ほ賢者多し。
現代語訳
『易経』に「善を積み重ねた家には、必ず子孫にまで及ぶ幸いがある」とあります。昔、顔氏が娘を叔梁紇(孔子の父)に嫁がせようとしたとき、その家の祖先が長く徳を積んできたことを一つ一つ述べて、子孫に必ず栄える者が出ることを前もって見抜きました。孔子は舜の大いなる孝を称えて、「祖先の廟はその祭りを受け、子孫はその家を保つ」と言いました。いずれもこの上ない言葉です。試しに過去の事例で確かめてみましょう。 楊少師栄(楊栄、明の重臣)は建寧の人です。代々渡し舟を生業としていました。長雨で谷川があふれ、濁流が民家を押し流し、溺れ死んだ人が流れのままに下ってきました。ほかの舟はみな流れてくる品物を拾い上げていましたが、少師の曾祖父と祖父だけはひたすら人を救い、品物は一つも取りませんでした。村人たちはその愚かさを笑いました。少師の父が生まれるころには家は次第に豊かになり、神が道士に姿を変えて現れ、「あなたの祖父と父には陰徳がある。子孫はきっと高い位に就くだろう。某の地に葬るのがよい」と告げました。そこでその指し示した所に葬りました。これが今の白兎墳です。のちに少師が生まれ、二十歳で科挙に合格し、位は三公にまで昇り、曾祖父・祖父・父にも同じ官位が贈られました。子孫は栄え、今でも賢者が多く出ています。
解説

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