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驢鞍橋 / 卷下

午の十月三日、臨終の僧に示して曰く、死しめされても、大事をりないぞ。まだ二十年三十年生きて修しめされたりとも、易ること有るべからす、我も八十迄生きたれども、何の變もなし。乍去我は慥に種は取つた也。其方も只種を失はじときつと守り終るべし。前は地獄へも何くへも行け、躰は何たる躰にもなれ、何と成ても大事をりないそ。我も人も只種を失はずして、出ては修し修すること也。昔も實に隙の明きたるは、釋迦御一人なるべし。其外の祖師殊に我朝の傳敎、弘法、まだ佛境界には遙なるべし。心安く思ひめされよ。少し計りなからへたりとも、何の變も有るべからす。畢竟命は因果次第也。我知る處に非す。扨て種は我次第也。强く眼を着け、萬事を放下して、正しく守り終るべしと有りければ、病僧正念にして逝去す。

新字:午の十月三日、臨終の僧に示して曰く、死しめされても、大事をりないぞ。まだ二十年三十年生きて修しめされたりとも、易ること有るべからす、我も八十迄生きたれども、何の変もなし。乍去我は慥に種は取つた也。其方も只種を失はじときつと守り終るべし。前は地獄へも何くへも行け、体は何たる体にもなれ、何と成ても大事をりないそ。我も人も只種を失はずして、出ては修し修すること也。昔も実に隙の明きたるは、釈迦御一人なるべし。其外の祖師殊に我朝の伝教、弘法、まだ仏境界には遥なるべし。心安く思ひめされよ。少し計りなからへたりとも、何の変も有るべからす。畢竟命は因果次第也。我知る処に非す。扨て種は我次第也。强く眼を着け、万事を放下して、正しく守り終るべしと有りければ、病僧正念にして逝去す。

書き下し

午の十月三日、臨終の僧に示して曰く、死しめされても、大事をりないぞ。まだ二十年三十年生きて修しめされたりとも、易ること有るべからす、我も八十迄生きたれども、何の変もなし。乍去我は慥に種は取つた也。其方も只種を失はじときつと守り終るべし。前は地獄へも何くへも行け、体は何たる体にもなれ、何と成ても大事をりないそ。我も人も只種を失はずして、出ては修し修すること也。昔も実に隙の明きたるは、釈迦御一人なるべし。其外の祖師殊に我朝の伝教、弘法、まだ仏境界には遥なるべし。心安く思ひめされよ。少し計りなからへたりとも、何の変も有るべからす。畢竟命は因果次第也。我知る処に非す。扨て種は我次第也。强く眼を着け、万事を放下して、正しく守り終るべしと有りければ、病僧正念にして逝去す。

現代語訳

午の年十月三日、臨終の僧に示して言われた。亡くなられても、大事はないぞ。まだ二十年、三十年生きて修められても、変わることはないだろう。私も八十まで生きたが、何の変わりもない。とはいえ、私は確かに種は取ったのである。あなたもただ、種を失うまいときっと守って終わりなさい。その先は、地獄へでもどこへでも行け。体はどんな体にでもなれ。何となっても大事はないぞ。私も人も、ただ種を失わずに、生まれ出ては修めに修めることである。昔も、本当に暇が明いたのは、釈迦お一人であろう。そのほかの祖師、とりわけ我が国の伝教、弘法も、まだ仏の境界にははるかに遠いだろう。心安く思われよ。少しばかり長らえても、何の変わりもないだろう。つまるところ、命は因果次第である。私の知るところではない。さて、種は自分次第である。強く目をつけ、万事を放下して、正しく守り終わりなさい、とあったので、病僧は正念のまま逝去した。

解説

臨終の僧に、正三は、死んでも大丈夫だ、あと二、三十年生きても変わらない、自分も八十まで生きたが何も変わらない、と語りかける。大切なのは、修行の種を失わずに守り通すことだけだ。その先はどこへ行ってもよい、釈迦以外に修行を完成した人はいないのだから、心安く思え、と。命の長さは因果次第だが、種を守るかどうかは自分次第である。死にゆく人を最も深く安心させる、正三の看取りの言葉である。

この章句が説くこと

臨終看取り因果安心自分次第

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