列子 / 湯問篇
周穆王北遊過其國、三年忘歸。既反周室、慕其國、𢠵然自失、不進酒肉、不召嬪御者、數月乃復。管仲勉齊桓公因遊遼口、俱之其國、幾尅舉。
新字:周穆王北遊過其国、三年忘帰。既反周室、慕其国、𢠵然自失、不進酒肉、不召嬪御者、数月乃復。管仲勉斉桓公因遊遼口、倶之其国、幾尅舉。
書き下し
周の穆王北遊して其の國を過ぎ、三年歸るを忘る。既に周室に反り、其の國を慕い、𢠵然として自失し、酒肉を進めず、嬪御を召さざる者、數月にして乃ち復す。管仲齊の桓公に勉めて遼口に遊ぶに因り、俱に其の國に之かんとし、幾ど舉ぐるを尅くす。
現代語訳
周の穆王が北へ旅してその国に立ち寄り、三年のあいだ帰ることを忘れた。周の王室に戻ってからも、その国を慕い、ぼんやりと放心して、酒も肉も口にせず、側女も呼ばないことが数か月続き、ようやく元に戻った。管仲は斉の桓公に勧めて、遼口に遊びに行くついでに、一緒にその国へ行こうとし、あやうく実行されるところだった。
解説
理想郷を見た人が、帰ってから使い物にならなくなる。三年忘れ、帰国後も数か月ふさぎ込んだ。しかもこれは周穆王篇の幻術の話と同じ構造です。より良いものを見た人は、自分の持ち場に戻れなくなる。そして管仲までが、桓公を連れて行こうとしました。名宰相として知られる人が、君主を国から連れ出そうとしている。ここを笑い話にできないのは、実務でも似たことが起きるからです。優れた事例を見に行った経営陣が、帰ってきて自社に絶望する。視察は、行き先を選ぶ以上に、帰ってきてからをどう設計するかのほうが難しい。次の段で、隰朋がそれを止めます。
この章句が説くこと
三年帰るを忘る𢠵然として自失し酒肉を進めず管仲斉の桓公に勉む
関連する章句
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『列子』湯問篇隰朋諫めて曰く、君は齊國の廣きを舍て、人民の衆きを舍て、山川の觀、殖物の阜、禮義の盛、章服の美、妖靡庭に盈ち、忠良朝に滿つるを舍つ。肆咤すれば則ち徒卒百萬、視撝すれば則ち諸侯命に從う。亦た奚ぞ彼を羨みて齊國の社稷を棄て、戎夷の國に從わんや。此れ仲父の耄なり。柰何ぞ之に從わん、と。桓公乃ち止み、隰朋の言を以て管仲に告ぐ。仲曰く、此れ固より朋の及ぶ所に非ざるなり。臣は彼の國の之を知るべからざるを恐る。齊國の富は奚ぞ戀わん。隰朋の言は奚ぞ顧みん、と。
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