列子 / 黄帝篇
曰:「亡、吾無道。吾始乎故、長乎性、成乎命、與齎俱入、與汩偕出。從水之道而不爲私焉、此吾所以道之也。」孔子曰:「何謂始乎故、長乎性、成乎命也?」曰:「吾生於陵而安於陵、故也、長於水而安於水、性也、不知吾所以然而然、命也。」
新字:曰:「亡、吾無道。吾始乎故、長乎性、成乎命、与齎倶入、与汩偕出。従水之道而不為私焉、此吾所以道之也。」孔子曰:「何謂始乎故、長乎性、成乎命也?」曰:「吾生於陵而安於陵、故也、長於水而安於水、性也、不知吾所以然而然、命也。」
書き下し
曰く、亡し、吾に道無し。吾は故に始まり、性に長じ、命に成る。齎と俱に入り、汩と偕に出づ。水の道に從いて私を爲さず。此れ吾の之を道く所以なり、と。孔子曰く、何をか故に始まり、性に長じ、命に成ると謂うや、と。曰く、吾陵に生まれて陵に安んず、故なり。水に長じて水に安んず、性なり。吾の然る所以を知らずして然り、命なり、と。
現代語訳
男は言った。「いや、私に道などない。私は習慣から始まり、性質として育ち、そうあるほかないところに至った。渦の巻き込む流れとともに入り、湧き上がる流れとともに出る。水の筋道に従って、自分の都合をさしはさまない。これが私が渡る理由です」。孔子は言った。「習慣から始まり、性質として育ち、そうあるほかないところに至る、とはどういうことか」。男は言った。「私は丘に生まれて丘に慣れた。これが習慣です。水のそばで育って水に慣れた。これが性質です。なぜそうなのか分からないままそうなっている。これがそうあるほかないところです」。
解説
習慣、性質、必然。この三段階が、この段の骨です。丘に生まれて丘に慣れるのが習慣。水のそばで育って水に慣れるのが性質。そしてなぜそうなのか自分でも分からなくなったところが、必然です。技が身につくとは、意識しないでできることではなく、なぜできるのか説明できなくなることだと言っている。前の段で孔子が「道があるのか」と聞いたのに対し、答えは「道はない」でした。道があると思っているうちは、まだ性質の段階です。もう一つ、「水の道に従って私を為さず」も要点です。逆らわないことではなく、自分の都合を差し挟まないこと。市場でも組織でも、状況の筋道に自分の希望を混ぜた瞬間に、判断が濁ります。
この章句が説くこと
吾に道無し故に始まり性に長じ命に成る水の道に従いて私を為さず
関連する章句
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『列子』黄帝篇仲尼曰く、𧮒。吾若と其の文を玩ぶこと久し。而れども未だ其の實に達せず。而るに固より且に道わんとするか。能く游ぐ者の教うべきは、水を輕んずればなり。善く游ぐ者の數ば能くするは、水を忘るればなり。乃ち夫の沒人の未だ嘗て舟を見ずして謖ちに之を操るは、彼は淵を視ること陵の若く、舟の覆るを視ること猶お其の車の卻くがごとし。覆卻萬物、方に前に陳なるも、其の舍に入るを得ず。惡くに往くとして暇ならざらん。瓦を以て摳く者は巧みに、鉤を以て摳く者は憚り、黄金を以て摳く者は惛る。巧は一なり、而れども矜る所有れば、則ち外を重んずるなり。凡そ外を重んずる者は内に拙なり、と。
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伝習録・薛侃録馬子莘問う、「『道を修むるの教』を、旧説に『聖人は吾が性の固有を品節し、以て天下に法と為す。礼・楽・刑・政の属の若し』と謂う。此の意は如何」と。先生曰く、「道は即ち性、即ち命なり。本と是れ完完全全、増減し得ず、修飾を仮らざる的なり。何ぞ須らく聖人の品節を要せん。却って是れ完全ならざるの物件なり。礼・楽・刑・政は是れ天下を治むるの法なり。固より亦た之を教と謂うべし。但だ是れ子思の本旨に非ず。若し先儒の説の如くんば、下面の教に由りて道に入る的は、縁何ぞ聖人の礼・楽・刑・政の教を舎て了りて、別に一段の戒慎恐懼の工夫を説き出すや。却って是れ聖人の教は虚設と為るなり」と。子莘、請い問う。先生曰く、「子思の性・道・教は皆な本原の上より説く。天、人に命ずれば、則ち命は便ち之を性と謂う。性に率いて行えば、則ち性は便ち之を道と謂う。道を修めて学べば、則ち道は便ち之を教と謂う。性に率うは是れ誠なる者の事なり。所謂る『誠より明らかなる、之を性と謂う』なり。道を修むるは是れ之を誠にする者の事なり。所謂る『明より誠なる、之を教と謂う』なり。聖人は性に率いて行う。即ち是れ道なり。聖人以下は、未だ性に率うる能わず。道に於て未だ過・不及有るを免れず。故に須らく道を修むべし。道を修むれば則ち賢知なる者も得て過ぐる能わず、愚不肖なる者も得て及ばざる能わず。都て這個の道に循わんことを要すれば、則ち道は便ち是れ個の教なり。此の『教』の字は、『天道の至教』『風雨霜露、教に非ざる無し』の『教』と同じ。『道を修む』の字は『道を修むるに仁を以てす』と同じ。人、能く道を修めば、然る後に能く道に違わずして、以て其の性の本体に復す。則ち亦た是れ聖人の性に率うの道なり。下面の『戒慎恐懼』は便ち是れ道を修むるの工夫なり。『中和』は便ち是れ其の性の本体に復するなり。『易』に所謂る『理を窮め性を尽くし、以て命に至る』が如し。『中和位育』は便ち是れ性を尽くし命に至るなり」と。
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