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列子 / 仲尼篇

關尹喜曰:「在己無居、形物其箸。其動若水、其靜若鏡、其應若響。故其道若物者也、物自違道、道不違物。善若道者、亦不用耳、亦不用目、亦不用力、亦不用心。欲若道而用視聽形智以求之、弗當矣。瞻之在前、忽焉在後、用之彌滿六虛、廢之莫知其所、亦非有心者所能得遠、亦非無心者所能得近。唯默而得之而性成之者得之。知而亡情、能而不爲、真知真能也。發無知、何能情?發不能、何能爲?聚塊也、積塵也、雖無爲而非理也。」

新字:関尹喜曰:「在己無居、形物其箸。其動若水、其静若鏡、其応若響。故其道若物者也、物自違道、道不違物。善若道者、亦不用耳、亦不用目、亦不用力、亦不用心。欲若道而用視聴形智以求之、弗当矣。瞻之在前、忽焉在後、用之弥満六虚、廃之莫知其所、亦非有心者所能得遠、亦非無心者所能得近。唯黙而得之而性成之者得之。知而亡情、能而不為、真知真能也。発無知、何能情?発不能、何能為?聚塊也、積塵也、雖無為而非理也。」

書き下し

關尹喜曰く、己に居ること無ければ、形物其れ箸わる。其の動くこと水の若く、其の靜かなること鏡の若く、其の應ずること響の若し。故に其の道は物の若き者なり。物自ら道に違うも、道は物に違わず。善く道に若う者は、亦た耳を用いず、亦た目を用いず、亦た力を用いず、亦た心を用いず。道に若わんと欲して視聽形智を用いて以て之を求むるは、當たらざるなり。之を瞻れば前に在り、忽焉として後に在り。之を用うれば六虛に彌り滿ち、之を廢つれば其の所を知る莫し。亦た有心なる者の能く遠きを得る所に非ず、亦た無心なる者の能く近きを得る所に非ず。唯だ默して之を得て性之を成す者のみ之を得。知りて情を亡くし、能くして爲さざるは、真の知・真の能なり。無知を發せば、何ぞ能く情あらん。不能を發せば、何ぞ能く爲さん。塊を聚むるなり、塵を積むなり。無爲と雖も理に非ざるなり、と。

現代語訳

関尹喜は言った。「自分にとどまるところがなければ、物の形がおのずと現れる。その動きは水のようで、その静けさは鏡のようで、その応じ方はこだまのようだ。だからその道は、物のようなものである。物のほうが道に背くことはあっても、道が物に背くことはない。よく道に従う者は、耳も用いず、目も用いず、力も用いず、心も用いない。道に従おうとして、見ること聞くこと体と知恵を用いて求めるのは、的を外している。見つめれば前にあり、たちまち後ろにある。用いれば六方の空間に満ちわたり、捨てればどこにあるか分からない。心ある者が遠くまで得られるものでもなく、心なき者が近くに得られるものでもない。ただ黙してそれを得て、生まれつきの性がそれを成し遂げた者だけが、それを得る。知っていながら情を持たず、できながらしないのが、真の知であり真の能である。知が無いところから出た無情に、どうして情があろう。能が無いところから出た無為に、どうして為があろう。それは土くれを集め、塵を積むようなものだ。無為であっても、道理ではない」。

解説

最後の三行が、この段の値打ちです。知っていながら情を持たず、できながらしない。これが真の知であり真の能だ。ところが、そもそも知らないから情が動かない、できないから何もしない――それは同じに見えて、土くれを積むようなもので、無為であっても道理ではない、と切り捨てます。何もしないことが二種類あると言っている。持っていて出さないのと、持っていないから出ないのは、外からは区別がつきません。しかし本質はまったく違う。黄帝篇の「之を能くして能く爲さざる者なり」と対になる一節です。経営者が動かずにいるとき、それがどちらなのかを、自分だけは知っていなければなりません。

この章句が説くこと

己に居ること無ければ形物其れ箸わる道は物に違わず知りて情を亡くし能くして為さざるは真の知真の能

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