列子 / 天瑞篇
精神者、天之分、骨骸者、地之分。屬天清而散、屬地濁而聚。精神離形、各歸其真、故謂之鬼。鬼、歸也、歸其真宅。黃帝曰:「精神入其門、骨骸反其根、我尚何存?」
新字:精神者、天之分、骨骸者、地之分。属天清而散、属地濁而聚。精神離形、各帰其真、故謂之鬼。鬼、帰也、帰其真宅。黄帝曰:「精神入其門、骨骸反其根、我尚何存?」
書き下し
精神は天の分、骨骸は地の分なり。天に屬するものは清くして散じ、地に屬するものは濁りて聚まる。精神形を離れ、各々其の真に歸る、故に之を鬼と謂う。鬼とは、歸なり、其の真宅に歸るなり。黄帝曰く、精神は其の門に入り、骨骸は其の根に反る、我尚お何ぞ存せん、と。
現代語訳
精神は天から分けられたもの、骨や体は地から分けられたものである。天に属するものは澄んでいて散り、地に属するものは濁っていて集まる。精神が体を離れると、それぞれもとのところへ帰る。だからこれを鬼という。鬼とは帰るということであり、本当の住まいへ帰ることである。黄帝は言った。「精神はその門に入り、骨は根へ還る。この私はいったいどこに残っているというのか」。
解説
鬼という字を「帰」と読み替えたところが要です。恐ろしいものではなく、来たところへ戻るという事実の呼び名にしてしまう。そのうえで黄帝の言葉が置かれます。精神も体もそれぞれ元へ還るなら、その二つを足して「私」と呼んでいたものは、どこに残るのか。答えは書かれていません。書かれていないことが答えです。私とは、二つが一時的に組み合わさっているあいだの呼び名にすぎない。この見方は自分の死だけでなく、役職や肩書きにもそのまま当てはまります。社長という私、部長という私も、権限と人が一時的に組み合わさった状態の呼び名です。離れたあとに残る私を先に探しておくと、引き際で慌てません。
この章句が説くこと
鬼とは帰なり其の真宅に帰る精神は天の分・骨骸は地の分我尚お何ぞ存せん
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