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南洲翁遺訓 / 第四十一条

身を修し己れを正して、君子の体を具ふるとも、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり。譬へば数十人の客不意に入り来んに、仮令何程饗応したく思ふとも、兼て器具調度の備無ければ、唯心配するのみにて、取賄ふ可き様有間敷ぞ。常に備あれば、幾人なりとも、数に応じて賄はるる也。夫れ故平日の用意は肝腎ぞとて、古語を書て賜りき。

書き下し

身を修し己れを正して、君子の体を具ふるとも、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり。譬へば数十人の客不意に入り来んに、仮令何程饗応したく思ふとも、兼て器具調度の備無ければ、唯心配するのみにて、取賄ふ可き様有間敷ぞ。常に備あれば、幾人なりとも、数に応じて賄はるる也。夫れ故平日の用意は肝腎ぞとて、古語を書て賜りき。

現代語訳

身を修め自分を正して、君子の体を備えたとしても、実際の処置ができない人ならば、木偶人形も同然である。たとえば数十人の客が不意に入って来たとして、いくら饗応したいと思っても、かねてから器具や調度の備えがなければ、ただ心配するばかりで、取りまかなうすべはあるまい。常に備えがあれば、何人であろうとも、数に応じてまかなえるのである。だから平日の用意が肝腎だ、と言って、古語を書いて賜った。

解説

遺訓の本編を締めくくる条で、前条までの修養論に最後の釘を刺す。「君子の体を具ふるとも、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり」。人格を完成させても、実際に処理できなければ木偶人形だ、と。第三十九条で「体有りてこそ用は行はるる」と言った同じ人が、ここでは用のない体を否定する。両方が要る、ということである。比喩は日常そのものだ。数十人の客が不意に来る。もてなしたい気持ちがあっても、器がなければ何もできない。「唯心配するのみにて」——心配だけが残る。用意のない善意は、心配に変わるという指摘である。そして「常に備あれば、幾人なりとも、数に応じて賄はるる」。備えは、量ではなく常にあることが条件になっている。第三十三条の「平日道を蹈み居る者」と呼応して、遺訓は平日という言葉で閉じられる。

この章句が説くこと

君子の体と処分木偶人平日の用意備え

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