宋名臣言行録 / 後集巻十二・劉安世
公與溫公為同年契因遂從學於溫公熙寜一年舉進士不就選徑歸洛溫公曰何為不仕公以漆彫開吾斯未能信之語以對溫公説復從學者數年一日避席問盡心行已之要可以終身行之者溫公曰其誠乎吾平生力行之未嘗須臾離也故立朝行巳俯仰無媿爾公問行之何先溫公曰自不妄語始自是拳拳勿失終身行之
新字:公与温公為同年契因遂従学於温公熙寜一年舉進士不就選径帰洛温公曰何為不仕公以漆彫開吾斯未能信之語以対温公説復従学者数年一日避席問尽心行已之要可以終身行之者温公曰其誠乎吾平生力行之未嘗須臾離也故立朝行巳俯仰無愧爾公問行之何先温公曰自不妄語始自是拳拳勿失終身行之
書き下し
公温公と同年の契を爲す。因りて遂に温公に從いて學ぶ。熙寧の一年、進士に舉げらるるも選に就かず、徑ちに洛に歸る。温公曰く、何爲れぞ仕えざる、と。公漆彫開の「吾斯を未だ信ずる能わず」の語を以て對う。温公説ぶ。復た從いて學ぶこと數年。一日席を避けて、盡心行己の要、以て終身行う可き者を問う。温公曰く、其れ誠か。吾平生之を力行して、未だ嘗て須臾も離れざるなり。故に朝に立ち己を行いて、俯仰媿づる無きのみ、と。公問う、之を行うに何をか先とせん、と。温公曰く、妄語せざるより始めよ、と。是れより拳拳として失う勿く、終身之を行う。
現代語訳
劉安世は司馬光と同年のよしみがあり、そこで司馬光について学ぶことになった。熙寧のはじめ、進士に及第したが、任官の選に就かず、まっすぐ洛陽に帰った。司馬光は言った。「なぜ仕えないのか」。劉安世は、漆雕開の「私はまだこれに自信が持てません」という言葉をもって答えた。司馬光は喜んだ。それからさらに数年、司馬光について学んだ。ある日、席を下がって、心を尽くし身を修める要で、生涯行っていけるものを尋ねた。司馬光は言った。「それは誠であろうか。私は生涯これを努めて行い、片時も離れたことがない。だから朝廷に立っても身を処しても、天を仰ぎ地に伏して恥じるところがないだけだ」。劉安世は尋ねた。「これを行うには、何から先にすべきでしょうか」。司馬光は言った。「でたらめを言わないことから始めよ」。これ以来しっかりと胸に抱いて手放さず、生涯これを行った。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之四翁曰く、我が道は至誠と実行のみ、故に鳥獣(ちょうじゅう)虫魚(ちゅうぎょ)草木にも皆及ぼすべし、況(いわ)んや人に於(お)けるをや、故に才智弁舌(さいちべんぜつ)を尊(たっと)まず、才智弁舌は、人には説くべしといえども、鳥獣草木を説く可(べ)からず、鳥獣は心あり、或(ある)いは欺(あざむ)くべしといえども、草木をば欺く可からず、夫(それ)我が道は至誠と実行となるが故に、米麦蔬菜(そさい)瓜茄子(うりなす)にても、蘭菊(らんぎく)にても、皆是(これ)を繁栄せしむるなり、仮令(たとい)知謀(ちぼう)孔明を欺き、弁舌蘇長(そちょう)を欺くといえども、弁舌を振(ふる)いて草木を栄(さか)えしむる事は出来ざるべし、故に才智弁舌を尊まず、至誠と実行を尊ぶなり、古語に、至誠神(かみ)の如しと云うといえども、至誠は則(すなわ)ち神と云うも、不可なかるべきなり、凡(およ)そ世の中は智あるも学あるも、至誠と実行とにあらざれば事は成らぬ物と知るべし。
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『都鄙問答』卷之二・鬼神ヲ遠ト云事ヲ問ノ段曰、貴人を軽ずるに似たり。何とて左様のことのいわるべきや。答、貴人に云れざる不義を以て、清浄の神明に祈を為、願ひの通に成下されなば、鳥居や社の脩覆致し奉らんと云時、鳥居や脩覆に迷ひ玉ふあさましき神有べきや。然るを非礼の物を推て捧げ、神明を穢奉り、終には神罰を受べし。恐るべきことなり。「心だにまことの道にかなひなばいのらずとても神やまもらん」との御神詠もあるぞかし。子路、孔子の病を祷ことを請。子曰、丘之祷久と。祷るとのたまふは、誠の道に合へることなり。誠に合はゞ、何ぞ祈ことあらんや。然るを我朝の神道に違ふとは如何なることぞ。凡て聖人の書は、箇様の迷ひを解べき為の書なり。書に依て迷はゞ、
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『弁名』誠又た仁斎先生の無妄と無偽とを以て其の優劣を争ふが如きも、亦た朱子の意は虚妄無きを謂ふのみなるを知らず。其の所謂春当に温かなるべくして反つて寒く、夏当に熱かるべくして反つて冷え、夏に霜ふり、冬に雷なり、桃李華さき、五星逆行し、日月度を失ふの類、豈に虚妄と為すべけんや。東坡の所謂「人は至らざる所無し、惟だ天のみ偽を容れず」とは、其の人の偽を容れざるを謂ふのみ。天の偽らざるを謂ふに非ざるなり。嗚呼、天豈に偽不偽を以て言ふべけんや。是れ其の今言に於いて猶ほ未だ之を知らず。況んや古言に於いてをや。
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『洗心洞箚記』卷下・第九十一條是の故に賢愚と無く、学に志せば、則ち断じて是を以て準的と為す。則ち康荘大道の上を行くの人にして、邪径曲路を踏む者に非ざるなり。而して其の成不成も亦命なるのみ。君子は命を云はず、只義を以て主と為す。則ち誠を以て準的と為す、義焉より大なるは莫し。陽明先生曰く、大学の要は、誠意のみと。此を以てなり。而して程朱居敬窮理の工も、要するに亦誠に帰するのみ。豈に他有らんや。而して其の学者静坐し、其の子陽辟して書を読み、其の勤惰を知らず、或いは冊子の上に放著して、心を治むるの工を知らず。是れ皆其の末学の弊なり。程朱の学にして安んぞ之有らんや。故に湯潜菴先生曰く、宋儒は主敬を言ふ。陽明は学者の一の敬の字を執著呆守するに過ぎて、反つて是れ不敬なるを恐る。故に人に教へて只良知を提醒せしむ。吾謂へらく、良知を昏まさざる者は、敬なり。敬の執著せざる所の者は、良知なりと。要するに誠に帰するを以て準的と為して問学すれば、則ち主敬と曰ふも亦可なり、致良知と曰ふも亦可なり。否ずんば則ち博学浩聞も、即ち門外の乞児なり。反観内省も、即ち葱嶺の髡徒なり。豈に道を学ぶと曰はんや。
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言志四録・南洲手抄意の誠否は、須らく夢寐中の事に於て之を験すべし。
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『大和俗訓』巻之七・躬行下一程子曰、財ををしみては、よく善を行ふことなり難し。誠なくしては、善をなす事はなり難しと。此言むべなるかな。財を用ひずして、ただ言を以て人をかたらふとも、人を救ひがたし。人もまた悦ばずして其人のために忠を尽さざれば功をなすこと成りがたし。項羽を婦人の仁といひしも是なり。又凡の事、いつはりを以て善を行へば、中心より出でざる故、善を行ふに専一ならずして、其事成就せず。誠の善とすべからず。人も亦信とせず。感通の理なし。

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