宋名臣言行録 / 後集巻七・司馬光
及退上留光謂曰吕公著言藩鎮欲興晉陽之甲豈非讒說殄行也光曰公著平居與儕輩言猶三思而發何故上前輕發乃爾外人多疑其不然上曰此所謂静言庸違者也光曰公著誠有罪不在今日向者朝廷委公著專舉臺官公著乃盡舉條例司之人與條例司互相表裏使熾張如此乃始逼於公議復言其非此所可罪也
新字:及退上留光謂曰呂公著言藩鎮欲興晋陽之甲豈非讒説殄行也光曰公著平居与儕輩言猶三思而発何故上前軽発乃爾外人多疑其不然上曰此所謂静言庸違者也光曰公著誠有罪不在今日向者朝廷委公著専舉台官公著乃尽舉条例司之人与条例司互相表裏使熾張如此乃始逼於公議復言其非此所可罪也
書き下し
退くに及び、上光を留めて謂いて曰く、呂公著は藩鎮の晉陽の甲を興さんと欲すと言えり。豈に讒説殄行に非ずやと。光曰く、公著は平居儕輩と言うにも猶お三思して發す。何の故に上前に輕く發すること乃ち爾らんや。外人多く其の然らざるを疑うと。上曰く、此れ所謂静言庸違なる者なりと。光曰く、公著に誠に罪有り。今日に在らず。向者、朝廷公著に委ねて專ら臺官を舉げしむ。公著乃ち盡く條例司の人を舉げて、條例司と互いに相い表裏し、熾張せしむること此くの如し。乃ち始めて公議に逼られて復た其の非を言う。此れ罪とす可き所なりと。
現代語訳
退出しようとしたとき、天子は司馬光を引き留めて言った。「呂公著は、地方の藩鎮が晋陽の兵を起こそうとしていると言った。これこそ讒言と行いを損なうものではないか」。司馬光は言った。「公著はふだん、同輩と話すときでさえ三度考えてから口にします。どうして天子の前で、そんなに軽々しく口にしましょうか。外の者の多くは、それが事実ではないと疑っております」。天子は言った。「それがいわゆる、静かに語りながら実は違うという者である」。司馬光は言った。「公著にはまことに罪があります。しかし今日のことではありません。以前、朝廷は公著に委ねて、もっぱら御史台の官を推挙させました。公著はそこで、ことごとく条例司の人を推挙して、条例司と互いに表裏をなし、勢いをここまで盛んにさせました。それでいて、ようやく世論に迫られてから、あらためてその非を言いはじめた。これこそ罪とすべきところです」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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尚書・盤庚上古我が先王、乃の祖乃の父と暨(とも)に、胥(あひ)逸勤を及にす。予敢て非罰を動用せんや。世々爾の労を選び、予爾の善を掩はず。茲に予大いに先王を享(まつ)り、爾の祖其れ従ひて与に之を享く。福を作し災を作す、予も亦敢て非徳を動用せず。予汝に難きを告ぐ、射るの志有るが若し。汝老成人を侮ること無かれ、孤有幼を弱んずること無かれ。各々厥の居に長じ、勉めて乃の力を出し、予一人の作す猷(はかりごと)を聴け。遠邇有る無く、罪を用て厥の死を伐ち、徳を用て厥の善を彰す。邦の臧(よ)きは、惟れ汝衆なり。邦の臧からざるは、惟れ予一人佚罰有り。凡そ爾衆、其れ惟れ致し告げよ。今より後日に至るまで、各々爾の事を恭しくし、乃の位を斉へ、乃の口を度れ。罰爾の身に及ばば、悔ゆべからず。」
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史記 宋微子世家司馬唐山太子肥を攻め殺し、華元を殺さんと欲す。華元晋に犇(はし)らんとす。魚石之を止め、河に至りて乃ち還り、唐山を誅す。乃ち共公の少子戌を立つ。是を平公と為す。平公の三年、楚の共王宋の彭城を抜き、以て宋の左師魚石を封ず。四年、諸侯共に魚石を誅し、而して彭城を宋に帰す。三十五年、楚の公子囲其の君を弑して自立し、霊王と為る。四十四年、平公卒し、子の元公佐立つ。元公の三年、楚の公子棄疾霊王を弑し、自立して平王と為る。八年、宋に火あり。十年、元公信毋く、詐りて諸公子を殺す。大夫華・向氏乱を作す。楚の平王の太子建来奔す。諸華氏の相攻めて乱るるを見て、建去りて鄭に如く。十五年、元公魯の昭公の季氏を避けて外に居るが為に、之が為に魯に入らんことを求め、道を行きて卒し、子の景公頭曼立つ。景公の十六年、魯の陽虎来奔し、已にして復た去る。二十五年、孔子宋を過ぐ。宋の司馬桓魋之を悪み、孔子を殺さんと欲す。孔子微服して去る。三十年、曹宋に倍き、又晋に倍く。宋曹を伐つ。晋救はず。遂に曹を滅ぼして之を有つ。三十六年、斉の田常簡公を弑す。三十七年、楚の恵王陳を滅ぼす。熒惑心を守る。心は宋の分野なり。景公之を憂ふ。司星子韋曰く、「相に移すべし」と。景公曰く、「相は吾の股肱なり」と。曰く、「民に移すべし」と。景公曰く、「君は民を待つ」と。曰く、「歳に移すべし」と。景公曰く、「歳饑うれば民困しむ。吾誰の為にか君たらん」と。子韋曰く、「天は高きも卑きに聴く。君に君人の言三つ有り。熒惑宜しく動くこと有るべし」と。是に於て之を候ふに、果たして徙ること三度。六十四年、景公卒す。宋の公子特太子を攻め殺して自立す。是を昭公と為す。昭公は、元公の曾庶孫なり。昭公の父は公孫糾、糾の父は公子褍秦、褍秦は即ち元公の少子なり。
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史記 項羽本紀乃ち其の騎を分かちて以て四隊と為し、四嚮す。漢の軍之を囲むこと数重。項王其の騎に謂ひて曰く、「吾公の為に彼の一将を取らん。」と。四面の騎をして馳せ下らしめ、山の東に期して三処と為す。是に於て項王大呼して馳せ下る、漢の軍皆披靡し、遂に漢の一将を斬る。是の時、赤泉侯騎将と為り、項王を追ふ、項王目を瞋らして之を叱す、赤泉侯人馬倶に驚き、辟易すること数里。其の騎と会して三処と為る。漢の軍項王の在る所を知らず、乃ち軍を分かちて三と為し、復た之を囲む。項王乃ち馳せ、復た漢の一都尉を斬り、殺すこと数十百人、復た其の騎を聚むるに、其の両騎を亡ふのみ。乃ち其の騎に謂ひて曰く、「何如。」と。騎皆伏して曰く、「大王の言の如し。」と。是に於て項王乃ち東のかた烏江を渡らんと欲す。烏江の亭長船を檥(よそほ)ひて待ち、項王に謂ひて曰く、「江東小なりと雖も、地は方千里、衆は数十万人、亦王たるに足るなり。願はくは大王急ぎ渡れ。今独り臣のみ船有り、漢の軍至るも、以て渡る無し。」と。項王笑ひて曰く、「天の我を亡ぼす、我何ぞ渡ることを為さん。且つ籍江東の子弟八千人と江を渡りて西す、今一人の還る無し、縦ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありて之に見えん。縦ひ彼言はずとも、籍独り心に愧ぢざらんや。」と。乃ち亭長に謂ひて曰く、「吾公の長者なるを知る。吾此の馬に騎ること五歳、当たる所敵無し、嘗て一日に行くこと千里、之を殺すに忍びず、以て公に賜ふ。」と。乃ち騎をして皆馬を下りて歩行せしめ、短兵を持ちて接戦す。独り籍の殺す所の漢の軍数百人。項王の身も亦十余創を被る。顧みて漢の騎司馬呂馬童を見て、曰く、「若は吾が故人に非ずや。」と。馬童之に面し、王翳に指して曰く、「此れ項王なり。」と。項王乃ち曰く、「吾聞く漢我が頭を千金、邑万戸に購ふと、吾若の為に徳せん。」と。乃ち自刎して死す。王翳其の頭を取り、余騎相蹂践して項王を争ひ、相殺す者数十人。
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『政談』旅人を其の所に留置締りの事旅人は其の人の本在所より縁故を以て添状を持ち来らば名主へ断り置くべし、親類近付ならば添状に及ばず、名主へ断り置くべし、何れも其の在所を出るときも其の所の名主へ断るべし、事ある時は添状あるは添状を出したる人の科になり、添状なきは相対なる故其の旅人を請たる者の科になることなれば、名主委細の詮議に及ばず聴届くべきなり、其旅人商人なとにて暫く店を持ことならば、其添状を請たるものより請判をすべし、何れも他国逗留三年を過ぐべからず、人旅人に妻を持すること有べからず、人の古郷を離れて他国の人となることは道先きにて身上を固むる故なり、この二色は名主の世話にして堅く禁ずべし、
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『春秋左氏伝』哀公十一年 冉求、季孫を説く十一年春、齊鄎の故の為に、國書・高無丕師を帥ゐて我を伐ち、清に及ぶ。季孫其の宰冉求に謂ひて曰く、「齊の師清に在り。必ず魯の故なり。之を若何せん」と。求曰く、「一子守り、二子從ひ、公諸を竟に禦がん」と。季孫曰く、「能はず」と。求曰く、「封疆の間に居らん」と。季孫二子に告ぐ。二子可とせず。求曰く、「若し可とせずんば、則ち君出づること無かれ。一子師を帥ゐて、城を背にして戰はん。屬せざる者は、魯人に非ざるなり。魯の群室は、齊の兵車より眾し。一室にて一車に敵するも、優れり。子何ぞ患へん。二子の戰ふを欲せざるは宜なり。政は季氏に在り。子の身に當りて、齊人魯を伐ちて戰ふ能はずんば、子の恥なり。大いに諸侯に列せざらん」と。季孫朝に從はしめ、黨氏の溝に俟たしむ。武叔呼びて戰を問ふ。對へて曰く、
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史記 張耳陳余列伝貫高独り怒り罵りて曰く、「誰か公をして之を為さしめし。今王実に謀無くして、并せて王を捕ふ。公等皆死せば、誰か王の反せざるを白さん」と。乃ち轞車に膠致せられ、王と長安に詣る。張敖の罪を治む。上乃ち趙の群臣賓客に詔すらく、敢て王に従ふ有らば皆族せんと。貫高と客孟舒等十余人と、皆自ら髡鉗し、王の家奴と為りて従ひ来たる。貫高至り、獄に対へて曰く、「独り吾が属之を為す。王実に知らず」と。吏治めて榜笞すること数千、刺剟して、身に撃つべき者無きも、終に復た言はず。呂后数々言ふ、張王は魯元公主の故を以て、宜しく此れ有るべからずと。上怒りて曰く、「張敖をして天下に拠らしめば、豈に而が女を少しとせんや」と。聴かず。廷尉貫高の事の辞を以て聞す。上曰く、「壮士なり。誰か知る者ぞ。私を以て之に問へ」と。中大夫泄公曰く、「臣の邑子にして、素より之を知る。此れ固より趙国の名義を立てて侵されず、然諾を為す者なり」と。上泄公をして節を持して之に箯輿の前に問はしむ。仰ぎ視て曰く、「泄公か」と。泄公労苦すること生平の驩の如く、与に語り、張王果して計謀有りや不やを問ふ。高曰く、「人情寧ぞ各々其の父母妻子を愛せざらんや。今吾が三族皆以て死に論ぜらる。豈に王を以て吾が親に易へんや。顧ふに王実に反せず、独り吾等之を為せり」と。具に本指の為す所以と王の知らざる状とを道ふ。是に於て泄公入り、具に以て報ず。上乃ち趙王を赦す。上貫高の人と為り能く然諾を立つるを賢とし、泄公をして具に之に告げしめて曰く、「張王已に出でたり」と。因りて貫高を赦す。貫高喜びて曰く、「吾が王審らかに出でたるか」と。泄公曰く、「然り」と。泄公曰く、「上足下を多とす。故に足下を赦す」と。貫高曰く、「死せずして一身に余無き所以の者は、張王の反せざるを白さんとすればなり。今王已に出づ。吾が責已に塞がる。死すとも恨みず。且つ人臣として篡殺の名有り、何の面目ありて復た上に事へんや。縦ひ上我を殺さずとも、我心に愧ぢざらんや」と。乃ち仰ぎて骯を絶ち、

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