宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
濮安懿王以英宗踐阼例當改封上尤詳謹不欲遽既踰大祥始詔兩制議其禮兩制謂當稱大國封皇伯中書擬所生稱皇伯無經據又封爵須下誥名之則未得其中方下三省再議英宗復詔罷之而臺諌官攻中書不已尤指歐陽公諸公莫不避匿自解公獨謂人曰此中書事皆共議何可獨罪歐陽公士大夫嘆其平直忠諒不肯推謗與人
新字:濮安懿王以英宗践阼例当改封上尤詳謹不欲遽既踰大祥始詔両制議其礼両制謂当称大国封皇伯中書擬所生称皇伯無経拠又封爵須下誥名之則未得其中方下三省再議英宗復詔罷之而台諌官攻中書不已尤指欧陽公諸公莫不避匿自解公独謂人曰此中書事皆共議何可独罪欧陽公士大夫嘆其平直忠諒不肯推謗与人
書き下し
濮安懿王、英宗の踐阼を以て、例當に改封すべし。上尤も詳謹にして遽かにするを欲せず。既に大祥を踰えて、始めて兩制に詔して其の禮を議せしむ。兩制謂えらく、當に大國に封じて皇伯と稱すべしと。中書擬すらく、所生を皇伯と稱するは經據無し、又た爵を封ずるには須らく誥もて之を名づくべしと。則ち未だ其の中を得ず。方に三省に下して再び議せしむ。英宗復た詔して之を罷む。而るに臺諫の官、中書を攻めて已まず。尤も歐陽公を指す。諸公避け匿れて自ら解せざるは莫し。公獨り人に謂いて曰く、此れ中書の事なり。皆共に議す。何ぞ獨り歐陽公を罪す可けんやと。士大夫、其の平直忠諒にして、謗りを推して人に與うるを肯んぜざるを嘆ず。
現代語訳
濮安懿王は、英宗が即位したことにより、先例では封を改めるべきであった。天子はことに慎重で、急ぐことを望まなかった。大祥の喪が明けてはじめて、両制に詔して、その礼を議させた。両制は、大国に封じて皇伯と称すべきだとした。中書は、生みの親を皇伯と称するのは経典の拠りどころがなく、また爵を封ずるには誥をもって名づけねばならない、と擬した。それでは落としどころが得られない。ちょうど三省に下してもう一度議させるところであった。英宗はふたたび詔してこれを取りやめた。ところが台諫の官が中書を攻めてやまなかった。とりわけ欧陽脩を名指しした。諸公は避け隠れて自分だけ弁解しない者はいなかった。韓琦ひとりが人に言った。「これは中書の事である。みなで共に議した。どうして欧陽公ひとりを罪してよいものか」。士大夫たちは、その公平で真っすぐ、謗りを人に押しつけようとしない態度を嘆じた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『呻吟語』外篇・世運・氣化の罪に非ざるなり世界は一般に是れ唐虞の時の世界なり。黎民は一般に是れ唐虞の時の黎民なり。而るに治は古に若かず。氣化の罪に非ざるなり。
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『春秋左氏伝』僖公三十三年 一眚を以て大徳を掩わず夏、四月、辛巳、秦の師を殽に敗り、百里孟明視・西乞術・白乙丙を獲て以って歸る。遂に墨して以って文公を葬る。晉是に於いて始めて墨す。文嬴三帥を請ひて曰く、「彼實に吾が二君を構ふ。寡君若し得て之を食らふとも、厭かじ。君何ぞ辱くも討たん。歸りて秦に戮に就かしめ、以って寡君の志を逞(たくま)しうせしめば、若何」と。公之を許す。先軫朝して、秦の囚を問ふ。公曰く、「夫人之を請ふ、吾之を舍せり」と。先軫怒りて曰く、「武夫力めて諸を原に拘へ、婦人暫くにして諸を國に免ず。軍實を墮(こぼ)ちて寇讎を長ず。亡ぶること日無からん」と。顧みずして唾す。公陽處父をして之を追はしむ。諸を河に及べば、則ち舟中に在り。左驂を釋き、公命を以って孟明に贈る。孟明稽首して曰く、「君の惠、纍臣を以って鼓に釁(ちぬ)らず、歸りて秦に戮に就かしむ。寡君の以って戮と為さば、死すとも且つ朽ちず。若し君の惠に從ひて之を免さば、三年にして將に君の賜を拜せんとす」と。秦伯素服して郊次し、師に鄉(むか)ひて哭して曰く、「孤蹇叔に違ひ、以って二三子を辱しむ、孤の罪なり。孟明を替へざるは、孤の過ちなり。大夫何の罪かあらん。且つ吾一眚(いっせい)を以って大德を掩はず」と。狄齊を侵す、晉の喪に因るなり。公邾を伐ち、訾婁(しろう)を取り、以って升陘の役に報ゆ。邾人備へを設けず。秋、襄仲復た邾を伐つ。狄晉を伐ち、箕に及ぶ。
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『呻吟語』内篇・談道・相責各盡の四字天下の治亂は、只だ「相責各盡」の四字に在るのみ。
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史記 趙世家趙衰、重耳に従ひて出亡すること凡そ十九年、国に反ることを得たり。重耳晋の文公と為り、趙衰原の大夫と為り、原に居り、国政に任ず。文公の国に反り及び霸たる所以は、多く趙衰の計策なり。語は晋の事の中に在り。趙衰既に晋に反り、晋の妻固く翟の妻を迎へんことを要め、而して其の子盾を以て適嗣と為し、晋の妻の三子皆下りて之に事ふ。晋の襄公の六年にして趙衰卒し、諡して成季と為す。趙盾、成季に代はりて国政に任ずること二年にして晋の襄公卒す。太子夷皋年少し。盾、国の多難なるが為に、襄公の弟雍を立てんと欲す。雍時に秦に在り。使をして之を迎へしむ。太子の母日夜啼泣し、頓首して趙盾に謂ひて曰く、「先君何の罪かある。其の適子を釈きて更に君を求むるか」と。趙盾之を患へ、其の宗と大夫との襲ひて之を誅せんことを恐れ、乃ち遂に太子を立つ、是を霊公と為す。兵を発して襄公の弟を秦に迎ふる所の者を距ぐ。霊公既に立ち、趙盾益々国政を専らにす。霊公立ちて十四年、益々驕る。趙盾驟々諫むれども、霊公聴かず。熊蹯を食らふに及び、胹て熟せず、宰人を殺し、其の尸を持ちて出づ。趙盾之を見る。霊公此に由りて懼れ、盾を殺さんと欲す。盾素より仁にして人を愛す。嘗て食はせし所の桑下の餓人、反りて捍ぎて盾を救ふ。盾以て亡ぐるを得たり。未だ境を出でずして、趙穿霊公を弑して襄公の弟黒臀を立つ、是を成公と為す。趙盾復た反りて国政に任ず。君子盾を譏る、「正卿と為りて、亡げて境を出でず、反りて賊を討たず」と。故に太史書して曰く「趙盾其の君を弑す」と。晋の景公の時にして趙盾卒し、諡して宣孟と為す。子朔嗣ぐ。趙朔、晋の景公の三年、朔晋の将として下軍に将として鄭を救ひ、楚の荘王と河上に戦ふ。朔、晋の成公の姊を娶りて夫人と為す。晋の景公の三年、大夫屠岸賈、趙氏を誅せんと欲す。初め、趙盾在りし時、夢に叔帯の要を持ちて哭するを見る。甚だ悲し。已にして笑ひ、手を拊ちて且つ歌ふ。
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史記 循吏列伝文公曰く、「子は則ち自ら以て罪有りと為す、寡人も亦罪有るか」と。李離曰く、「理に法有り、刑を失へば則ち刑し、死を失へば則ち死す。公臣の能く微を聴き疑はしきを決するを以て、故に理為らしむ。今過ちて聴きて人を殺す、罪死に当たる」と。遂に令を受けず、剣に伏して死す。太史公曰く、孫叔敖一言を出だして、郢の市復す。子産病みて死し、鄭の民号哭す。公儀子好布を見て家婦逐はる。石奢父を縦して死し、楚の昭名立つ。李離過ちて殺して剣に伏し、晋の文以て国法を正す。

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