宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
康定元年夏竦都䕶西師公副之未幾遣學士晁宗慤内侍王守忠督出兵攻賊公曰如詔意為便不則元昊聚兵出不意攻伐我倉卒赴敵必敗合府争之公所論不得用使持奏還而元昊掠鎮戎軍偏將劉繼宗逆戰果不利詔下切責俾以進兵日月來上衆復㑹議乃畫攻守二䇿求中决公馳驛奏闕下上許用攻䇿已而執政以為難
新字:康定元年夏竦都䕶西師公副之未幾遣学士晁宗慤内侍王守忠督出兵攻賊公曰如詔意為便不則元昊聚兵出不意攻伐我倉卒赴敵必敗合府争之公所論不得用使持奏還而元昊掠鎮戎軍偏将劉継宗逆戦果不利詔下切責俾以進兵日月来上衆復会議乃画攻守二策求中決公馳駅奏闕下上許用攻策已而執政以為難
書き下し
康定元年、夏竦西師を都護し、公之に副たり。未だ幾ならずして學士晁宗慤・内侍王守忠を遣わし、兵を出だして賊を攻むるを督せしむ。公曰く、詔の意の如くんば便と爲す。然らずんば則ち元昊兵を聚めて不意に出で、我を攻伐せん。倉卒に敵に赴かば必ず敗れんと。府を合わせて之を爭う。公の論ずる所用いらるるを得ず。使いをして奏を持ちて還らしむ。而して元昊、鎮戎軍を掠む。偏將劉繼宗逆え戰い、果たして利あらず。詔下りて切責し、進兵の日月を以て來上せしむ。衆復た會議し、乃ち攻守二策を畫して中を決せんことを求む。公驛を馳せて闕下に奏す。上、攻策を用うるを許す。已にして執政、以て難しと爲す。
現代語訳
康定元年(一〇四〇)、夏竦が西の軍を統括し、韓琦がその副となった。ほどなく学士の晁宗愨と内侍の王守忠を遣わして、兵を出して敵を攻めるよう督促させた。韓琦は言った。「詔の趣旨のとおりにできるなら、それがよい。そうでなければ、元昊は兵を集めて不意に出て、こちらを攻めるだろう。あわてて敵地へ向かえば必ず敗れる」。役所を挙げてこれを論じ合った。韓琦の議論は用いられなかった。使者に上奏文を持たせて帰らせた。そして元昊が鎮戎軍を掠奪した。副将の劉継宗が迎え撃ったが、はたして利がなかった。詔が下って厳しく責め、進軍の日取りを報告させた。一同はふたたび会議し、攻めと守りの二つの策を立てて、どちらかに決めてもらうよう求めた。韓琦は駅伝を馳せて宮中に奏上した。天子は攻めの策を用いることを許した。ところが執政の者たちが、それは難しいとした。
解説
この章句が説くこと
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