宋名臣言行録 / 前集巻二・錢若水
至道初呂䝉正罷相以僕射奉朝請上謂左右曰人臣當思竭節以保富貴呂䝉正前日布衣朕擢為相今退在班列寂寞想其目穿望復位矣劉昌言曰䝉正雖驟登顯貴然其風望不為忝冐僕射師長百寮資望崇重非寂寞之地且亦不聞其鬱悒也況今巖穴髙士不求榮達者甚多惟若臣輩茍且官禄不足以自重耳上黙然又嘗言士大夫遭時得位富貴顯榮豈得不竭誠報國乎若水言髙尚之人固不以名位為光寵忠正之士亦不以窮達易志操其或以爵禄恩遇之故而效忠于上此中人以下者之所為也上然之及劉昌言罷上問趙鎔等曰頻見昌言否鎔等曰屢見之上曰涕泣否曰與臣等談多至流涕上曰大率如此當在位時不能悉心補職一旦斥去即汛瀾涕泗若水曰昌言實未嘗涕泣鎔等迎合上意耳若水因自念上待輔臣如此葢未嘗有秉節髙邁不貪名勢能全進退之道以感動人主遂貽上之輕鄙將以滿嵗移疾遂草章求解職㑹晏駕不果上及今上之初年再表遜位乃得請
新字:至道初呂䝉正罷相以僕射奉朝請上謂左右曰人臣当思竭節以保富貴呂䝉正前日布衣朕擢為相今退在班列寂寞想其目穿望復位矣劉昌言曰䝉正雖驟登顕貴然其風望不為忝冐僕射師長百寮資望崇重非寂寞之地且亦不聞其鬱悒也況今巖穴高士不求栄達者甚多惟若臣輩苟且官禄不足以自重耳上黙然又嘗言士大夫遭時得位富貴顕栄豈得不竭誠報国乎若水言高尚之人固不以名位為光寵忠正之士亦不以窮達易志操其或以爵禄恩遇之故而効忠于上此中人以下者之所為也上然之及劉昌言罷上問趙鎔等曰頻見昌言否鎔等曰屡見之上曰涕泣否曰与臣等談多至流涕上曰大率如此当在位時不能悉心補職一旦斥去即汛瀾涕泗若水曰昌言実未嘗涕泣鎔等迎合上意耳若水因自念上待輔臣如此葢未嘗有秉節高邁不貪名勢能全進退之道以感動人主遂貽上之軽鄙将以満歳移疾遂草章求解職会晏駕不果上及今上之初年再表遜位乃得請
書き下し
至道の初め、呂䝉正相を罷め、僕射を以て朝請を奉ず。上左右に謂いて曰く、人臣は當に節を竭くして以て富貴を保つを思うべし。呂䝉正前日は布衣なり。朕擢でて相と為す。今、退きて班列に在りて寂寞たり。想うに其れ目穿ちて復位を望まんと。劉昌言曰く、䝉正驟かに顯貴に登ると雖も、然れども其の風望忝冐為らず。僕射は百寮に師長たり。資望崇重にして寂寞の地に非ず。且つ亦た其の鬱悒たるを聞かず。況んや今、巖穴の髙士にして榮達を求めざる者甚だ多し。惟だ臣輩の若きは官禄に茍且して以て自ら重んずるに足らざるのみと。上黙然たり。又た嘗て言う、士大夫、時に遭い位を得、富貴顯榮なり。豈に誠を竭くして國に報いざるを得んやと。若水言う、髙尚の人は固より名位を以て光寵と為さず。忠正の士も亦た窮達を以て志操を易えず。其れ或いは爵禄恩遇の故を以て忠を上に效すは、此れ中人以下の為す所なりと。上之を然りとす。劉昌言の罷むるに及び、上、趙鎔等に問いて曰く、頻りに昌言を見るや否やと。鎔等曰く、屢々之を見ると。上曰く、涕泣するや否やと。曰く、臣等と談ずるに多く流涕に至ると。上曰く、大率此くの如し。位に在る時に心を悉くして職を補う能わず、一旦斥け去らるれば即ち汛瀾涕泗すと。若水曰く、昌言は實に未だ嘗て涕泣せず。鎔等は上の意に迎合するのみと。若水因りて自ら念う、上の輔臣を待つこと此くの如し。葢し未だ嘗て節を秉ること髙邁にして名勢を貪らず、能く進退の道を全うして以て人主を感動せしむる有らず。遂に上の輕鄙を貽すと。將に歳を滿たして疾に移らんとし、遂に章を草して職を解かんことを求む。晏駕に㑹いて果たさず。上及び今上の初年に、再び表して位を遜る。乃ち請を得たり。
現代語訳
至道のはじめ、呂蒙正が宰相を罷めて僕射として朝参の列にあった。太宗は側近に言った。「臣たる者は節を尽くして富貴を保つことを思うべきだ。呂蒙正はかつて無官の身だった。私が引き上げて宰相にした。いま退いて列に並んで寂しくしている。おそらく目を穿つほど復位を望んでいるだろう」。劉昌言が言った。「蒙正は急に高位に上ったとはいえ、その名声は分不相応ではありません。僕射は百官の師長であり、資格も声望も高く重く、寂しい地位ではありません。そのうえ、鬱々としているとも聞きません。まして今、岩穴に隠れて栄達を求めない高士がたいそう多くおります。ただ臣どものような者が、官禄に安んじて自らを重んじるに足りないだけです」。太宗は黙り込んだ。また太宗はかつて言った。「士大夫が時に遭って位を得、富み貴く栄えている。どうして誠を尽くして国に報いずにいられよう」。銭若水は言った。「高尚な人は、もとより名や位を光栄とはしません。忠正の士もまた、窮するか達するかで志と節を変えません。もし爵禄と恩遇のゆえに上に忠を尽くすのであれば、それは中くらいから下の人のすることです」。太宗はそのとおりだとした。劉昌言が罷免されたとき、太宗は趙鎔らに尋ねた。「しきりに昌言に会っているか」。趙鎔らは「たびたび会っております」と言った。太宗は「泣いているか」と尋ねた。「臣らと話すと、たいてい涙を流します」と言った。太宗は言った。「おおかたそんなものだ。位にあるときは心を尽くして職を補うことができず、ひとたび退けられれば涙を流す」。銭若水は言った。「昌言は実際には泣いたことがありません。趙鎔らは陛下のお心に迎合しているだけです」。銭若水はそこで自ら思った。主上が輔佐の臣を見る目がこのようなのは、これまでに節を高く保って名と勢いを貪らず、進退の道を全うして君主を感動させた者がいなかったからだ、と。そこで年限が満ちたら病と称して退こうとし、上表の草案を作って職を解かれることを願った。太宗の崩御に会って果たせなかった。太宗の代と、今上の初年に、再び表を出して位を譲り、ようやく願いが聞き届けられた。
解説
この章句が説くこと
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