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孔子家語 / 困誓

孔子遭厄於陳蔡之間,絕糧七日,弟子餒病,孔子弦歌。子路入見曰:「夫子之歌,禮乎?」孔子弗應,曲終而曰:「由,來,吾語汝。君子好樂,為無驕也;小人好樂,為無懾也。其誰之子,不我知而從我者乎?」子路悅,援戚而舞,三終而出,明日免於厄。子貢執轡曰:「二三子從夫子而遭此難也,其弗忘矣。」孔子曰:「善。惡何也?夫陳蔡之間,丘之幸也。二三子從丘者,皆幸也。吾聞之:君不困,不成王;烈士不困,行不彰。庸知其非激憤厲志之始,於是乎在?」

新字:孔子遭厄於陳蔡之間,絶糧七日,弟子餒病,孔子弦歌。子路入見曰:「夫子之歌,礼乎?」孔子弗応,曲終而曰:「由,来,吾語汝。君子好楽,為無驕也;小人好楽,為無懾也。其誰之子,不我知而従我者乎?」子路悅,援戚而舞,三終而出,明日免於厄。子貢執轡曰:「二三子従夫子而遭此難也,其弗忘矣。」孔子曰:「善。悪何也?夫陳蔡之間,丘之幸也。二三子従丘者,皆幸也。吾聞之:君不困,不成王;烈士不困,行不彰。庸知其非激憤厲志之始,於是乎在?」

書き下し

孔子陳蔡の間に厄に遭い、糧を絶つこと七日、弟子餒えて病む、孔子弦歌す。子路入りて見えて曰わく、「夫子の歌うは、礼か。」孔子応ぜず、曲終わりて曰わく、「由よ、来たれ、吾汝に語らん。君子の楽を好むは、驕る無からんが為なり。小人の楽を好むは、懾るる無からんが為なり。其れ誰が子ぞ、我を知らずして我に従う者は。」子路悦び、戚を援りて舞い、三たび終わりて出づ、明日厄を免る。子貢轡を執りて曰わく、「二三子夫子に従いて此の難に遭うや、其れ忘れざらん。」孔子曰わく、「善し。悪んぞ何ぞや。夫れ陳蔡の間は、丘の幸いなり。二三子丘に従う者は、皆幸いなり。吾之を聞く、君困しまざれば、王を成さず。烈士困しまざれば、行い彰われず。庸ぞ其れ激憤励志の始めに非ずして、是に於て在るを知らんや。」

現代語訳

孔子が陳・蔡の間で困難に遭い、食糧を絶たれること七日、弟子たちは飢えて病み衰えていたが、孔子は琴を弾いて歌っていた。子路が入ってきて言った。「先生が歌っておられるのは、礼にかなったことなのでしょうか。」孔子は答えず、曲が終わってから言った。「由よ、こちらへ来なさい、話して聞かせよう。君子が音楽を好むのは、驕り高ぶらないようにするためだ。小人が音楽を好むのは、恐れおののかないようにするためだ。いったいこれは誰の子であろうか、私のことをよく知りもせずに私に従っている者は。」子路は喜び、戚(斧に似た舞の道具)を手に取って舞い、三曲を終えると外へ出た。翌日、一行は困難から脱することができた。子貢が手綱を執りながら言った。「弟子たちが先生に従ってこの困難に遭ったことは、忘れられないでしょう。」孔子は言った。「よろしい。しかしどうしてそれが悪いことだろうか。そもそも陳蔡での困難は、私にとって幸いなことだったのだ。私に従っていた弟子たちにとっても、みな幸いなことだったのだ。私はこう聞いている。君主が苦しまなければ、真の王者とはならない。義に厚い士が苦しまなければ、その行いは世に明らかにならない、と。この苦難こそが、激しい憤りから志を奮い立たせる始まりであることを、誰が知ろうか、まさにここにこそその始まりがあるのだ。」

解説

陳蔡の厄の渦中、飢えと病に苦しむ弟子たちを前に、孔子が動じず琴を弾いて歌い続けた場面です。子路が礼にかなうのかと問うと、孔子は音楽を好む理由を、君子にとっては驕らないため、小人にとっては恐れを鎮めるためだと説き、暗に自分自身が困難の中でも動揺していないことを示します。子路はこれに悦んで舞い、翌日には一行は苦境を脱します。最後に孔子は、この苦難を不幸ではなく「幸い」だったと総括し、君主が苦しんでこそ真の王者となり、義士が苦しんでこそその行いが世に明らかになるのだと述べ、逆境こそが志を奮い立たせる契機であると説きます。逆境の渦中にありながら、それを後になって糧として肯定的に捉え直すという発想は、困難をどう意味づけるかという現代にも通じる心の持ち方を教えています。

この章句が説くこと

陳蔡之厄子路弦歌君不困不成王逆境

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