孔子家語 / 辯政
公悅,又問曰:「秦穆公國小處僻而霸,何也?」孔子曰:「其國雖小其志大,處雖僻而政其中。其舉也果,其謀也和。法無私而令不愉。首拔五羖,爵之大夫,與語三日而授之以政。此取之雖王可,其霸少矣。」景公曰:「善哉。」
新字:公悅,又問曰:「秦穆公国小処僻而覇,何也?」孔子曰:「其国雖小其志大,処雖僻而政其中。其舉也果,其謀也和。法無私而令不愉。首抜五羖,爵之大夫,与語三日而授之以政。此取之雖王可,其覇少矣。」景公曰:「善哉。」
書き下し
公悅び、又た問いて曰わく、「秦の穆公、國小さく處僻なるも霸たり、何ぞや。」孔子曰わく、「其の國小なりと雖も其の志大に、處僻なりと雖も其の政中る。其の舉ぐるや果、其の謀るや和。法私無くして令愉ならず。首めて五羖を拔き、之を大夫に爵し、與に語ること三日にして之に政を授く。此れ之を取れば王たりと雖も可なり、其の霸たるは少きなり。」景公曰わく、「善いかな。」
現代語訳
景公は喜んで、さらに尋ねた。「秦の穆公は国が小さく辺鄙な場所にありながら覇者となった。それはなぜか。」孔子は言った。「その国は小さくとも志は大きく、辺鄙な場所にありながらもその政治は的を射ていました。事を挙行するときは果断であり、計略を立てるときは調和がとれていました。法は私心なく運用され、命令は安易に妥協することがありませんでした。まず五枚の羊の皮で買い取った百里奚を抜擢し、大夫に任じ、三日間語り合ったうえで政治を任せました。これほどの人物を得たのですから、王者となってもおかしくないほどで、覇者にとどまったのはむしろ物足りないくらいです。」景公は「なるほど、よくわかった」と言った。
解説
景公が「政在節財」の答えに満足し、さらに秦の穆公が小国でありながら覇者となった理由を尋ねます。孔子は、国の規模や立地よりも、志の大きさ、果断な行動力、法の公正な運用、そして何より人材登用の的確さを理由に挙げます。特に、奴隷の身から羊の皮五枚で買い取られた百里奚を見出し、大夫に取り立てて三日間語り合ったうえで政治を任せたという逸話を引き、優れた人材を見抜き重用する力こそが小国を覇者に押し上げた原動力だったと説きます。規模の小ささを言い訳にせず、人材と統治の質で勝負するという教えは、現代の中小組織にも通じる指針です。
この章句が説くこと
秦穆公五羖大夫百里奚人材登用覇者
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