孔子家語 / 致思
孔子曰:「王者有似乎春秋,文王以王季為父,以太任為母,以太姒為妃,以武王、周公為子,以太顛、閎天為臣,其本美矣。武王正其身以正其國,正其國以正天下;伐無道,刑有罪;一動而天下正,其事成矣。春秋致其時而萬物皆及,王者致其道而萬民皆治。周公載己行化,而天下順之,其誠至矣。」
新字:孔子曰:「王者有似乎春秋,文王以王季為父,以太任為母,以太姒為妃,以武王、周公為子,以太顛、閎天為臣,其本美矣。武王正其身以正其国,正其国以正天下;伐無道,刑有罪;一動而天下正,其事成矣。春秋致其時而万物皆及,王者致其道而万民皆治。周公載己行化,而天下順之,其誠至矣。」
書き下し
孔子曰わく、「王者は春秋に似たる有り。文王は王季を以て父と為し、太任を以て母と為し、太姒を以て妃と為し、武王・周公を以て子と為し、太顛・閎天を以て臣と為す、其の本美なり。武王其の身を正して以て其の国を正し、其の国を正して以て天下を正す。無道を伐ち、罪有るを刑し、一動して天下正しく、其の事成れり。春秋其の時を致して万物皆及び、王者其の道を致して万民皆治まる。周公己を載せて化を行い、而して天下之に順う、其の誠至れり。」
現代語訳
孔子は言った。「真の王者のあり方は、春秋の運行に似ているところがある。文王は王季を父とし、太任を母とし、太姒を妃とし、武王・周公を子とし、太顛・閎天を臣としており、その根本からして立派であった。武王は自分の身を正すことによって国を正し、国を正すことによって天下を正した。道に外れた者を討ち、罪ある者を罰し、一つ行動を起こすだけで天下が正しくなり、その事業は成し遂げられた。春秋がその時節を尽くせば万物がそれぞれの時に応じて育つように、王者がその道を尽くせば万民はみな治まる。周公は自らの身をもって教化を行い、天下はこれに従った。その誠意が極まっていたのである。」
解説
理想的な王者のあり方を、天地の運行になぞらえて説いた言葉です。文王・武王・周公という周王朝の礎を築いた人々を例に挙げ、王者の政治とは、まず自分自身の身を正すところから始まり、それが家庭から国、そして天下へと波及していく一連の過程であると説いています。春秋が四季それぞれの時節を尽くすことで万物が自然に育つように、王者もまた自らの誠を尽くせば、命令せずとも万民が自然に治まっていくという考え方です。トップに立つ者の人格や誠実さが組織全体のあり方を規定するという発想は、現代のリーダーシップ論にも通じる普遍的な視点と言えるでしょう。
この章句が説くこと
王者文王武王周公誠
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