近思録 / 巻3 致知
義理有疑、則濯去舊見、以來新意。心中有所開、即便劄記。不思則還塞之矣。更須得朋友之助。一日間朋友論著、則一日間意思差別。須日日如此講論、久則自覺進也。
新字:義理有疑、則濯去旧見、以来新意。心中有所開、即便劄記。不思則還塞之矣。更須得朋友之助。一日間朋友論著、則一日間意思差別。須日日如此講論、久則自覚進也。
書き下し
義理に疑い有らば、則ち旧見を濯ぎ去りて、以て新意を来たせ。心中に開くる所有らば、即便ち劄記せよ。思わざれば則ち還た塞がる。更に須らく朋友の助けを得べし。一日の間、朋友論著すれば、則ち一日の間、意思差別あり。須らく日日かくの如く講論すべし。久しければ則ち自ら進むを覚ゆ。
現代語訳
義理について疑いが生じたら、古い見方を洗い流して、新しい考えを迎え入れよ。心の中に開けたところがあれば、すぐに書き留めよ。考えることをやめれば、また塞がってしまう。さらに友人の助けを得るがよい。一日のあいだ友人と論じ合えば、その一日で考えの違いが生まれる。毎日このように論じ合うべきである。長く続ければ、自ら進んだことに気づくだろう。
解説
疑いが生じたときの手順が、四つの動作で示されている。古い見方を洗い流す、開けたらすぐ書き留める、考え続ける、友人と論じる。とくに「即便ち劄記せよ」——思いついたらすぐメモを取れ、という実務的な指示が入っているのが面白い。理由も添えられている。考えることをやめれば、また塞がってしまうからだ。理解は放っておくと閉じる、という観察である。そして毎日の議論を勧める。一日論じれば、その一日で考えが変わる。学びを個人の作業ではなく、他者との往復として設計しているところが近思録らしい。
この章句が説くこと
旧見を濯ぎ去る劄記思わざれば還た塞がる朋友の助け
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『近思録』巻3 致知「思ふを睿と曰ふ」。思慮久しくして後、睿自然に生ず。若し一事の上に於て思ひて未だ得ざれば、且く別に一事に換へて之を思へ。専ら這の一事を守著すべからず。蓋し人の知識、這裏に於て蔽著す。強ひて思ふと雖も亦た通ぜざるなり。問ふ、人学に志有るも、然れども知識蔽固し、力量至らざれば、則ち之を如何せん。曰く、只だ是れ知を致すのみ。若し知識明らかなれば、則ち力量自ら進む。問ふ、物を観て己を察するは、還(また)見物に因りて反りて諸を身に求むるや否や。曰く、必ずしも此の如く説かず。物我一理、纔かに彼を明らかにすれば、即ち此を暁る。此れ内外を合するの道なり。又問ふ、知を致すに先づ之を四端に求むるは、如何。曰く、之を情性に求むるは、固より是れ身に切なり。然れども一草一木皆理有り、須らく是れ察すべし。「思ふを睿と曰ひ、睿は聖を作す」。思ひを致すは井を掘るが如し、初めは渾水有り、久しくして後稍く清き者を引き動かし得て出だし来たる。人の思慮は始めは皆溷濁するも、久しくして自ら明快なり。如何なるか是れ近思と問ふ。曰く、類を以て推す。学者は先づ疑ふことを会(よ)くせんことを要す。横渠先生范巽之に答へて曰く、訪ふ所の物怪神姦は、此れ語り難きに非ず。顧みるに語るも未だ必ずしも信ぜられざるのみ。孟子の論ずる所の「性を知り天を知る」、学天を知るに至れば、則ち物の従りて出づる所、当に源源として自ら見るべし。従りて出づる所を知れば、則ち物の当に有るべき当に無かるべき、心に諭らざる莫く、亦た語るを待ちて後に知らず。諸公の論ずる所は、但だ之を守りて失はず、異端の劫かす所と為らず、進み進みて已まざれば、則ち物怪は弁ずるを須ひず、異端は攻むるを必せず、朞年を逾えずして、吾が道勝たん。若し之を無窮に委ね、之を付するに知るべからざるを以てせば、則ち学は疑ひの撓す所と為り、知は物の昏ます所と為る。交々来たりて間無く、卒に以て自ら存する無くして、怪妄に溺るること必せり。子貢謂ふ、「夫子の性と天道とを言ふは、得て聞くべからず」と。既に夫子の言と言へば、則ち是れ居常之を語れるなり。聖門の学者は「仁を以て己が任と為す」。
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『近思録』巻3 致知明睿の照らす所に非ずして、考索此に至る。故に意屢々偏りて、言多く窒がり、小出入時に之有り。更に願はくは思慮を完養し、義理に涵泳せよ。他日自ら当に条暢すべし。得ると得ざるとを知らんと欲せば、心気の上に於て之を験せ。思慮得る有りて、中心悦豫し、沛然として裕か有る者は、実に得たるなり。思慮得る有るも、心気労耗する者は、実に未だ得ざるなり、強ひて揣度するのみ。嘗て人の言ふ有り、比(このごろ)学道に因りて、思慮心虚すと。曰く、人の血気は、固より虚実有り。疾病の来たるは、聖賢も免れざる所なり。然れども未だ古より聖賢の、学に因りて心疾を致す者を聞かず。今日鬼怪異説を雑信する者は、只だ是れ先づ理を燭らさざればなり。若し事上に於て一一理会せば、則ち甚の尽くる期か有らん。須らく只だ学上に於て理会すべし。所謂「日月に至る」と、久しくして息まざる者とは、見る所の規模略々相似たりと雖も、其の意味気象は迥かに別なり。須らく潜心黙識し、玩索すること之を久しくすべし、庶幾はくは自得せん。学者聖人を学ばざれば則ち已む。之を学ばんと欲せば、須らく熟く聖人の気象を玩味すべし。只だ名の上に於て理会すべからず。此の如くんば只だ是れ文字を講論するのみ。問ふ、忠信進徳の事は、固より勉強すべし。然れども致知は甚だ難し。伊川先生曰く、学者は固より当に勉強すべし、然れども須らく是れ知り了りて方に行ひ得べし。若し知らずんば只だ是れ堯を覻却して、他の行事を学ぶのみ。堯の許多の聡明睿智無くして、怎生(いかん)ぞ他の如く動容周旋礼に中るを得ん。子の言ふ所の如きは、是れ篤く信じて固く之を守るにして、固より之を有するに非ざるなり。未だ知を致さずして、便ち意を誠にせんと欲するは、是れ等を躐ゆるなり。勉強して行ふ者、安んぞ能く持久せん。除非(ただ)理を燭らすこと明らかなれば、自然に理に循ふを楽しむ。性は本善なり。理に循ひて行ふは、是れ理に順ふの事なり。本亦た難からず。但だ人知らずして、旋(にはか)に安排著するが為に、便ち難しと道ふなり。知に多少の般数有り、煞(はなは)だ深浅有り。学者須らく是れ真に知るべし、纔かに是なるを知り得れば、便ち泰然として行ひ将ち去るなり。某年二十の時、経義を解釈するは、今と異なる無し。然れども今日を思へば意味少時と自ら別なるを覚ゆ。
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『近思録』巻3 致知淳初めて到り、学を為すの方を問う。先生曰く、公、学を為すを知らんと要さば、須らく是れ書を読むべし。書は必ずしも多く看ず、その約を知らんことを要す。多く看てその約を知らざれば、書肆のみ。頤、少き時に書を読みて多きを貪るに縁り、如今多く忘れ了れり。須らく是れ聖人の言語を将て玩味し、心に入れ記著し、然る後に力めて去りてこれを行うべし。自ら得る所有らん。
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『近思録』巻2 為学文は密察ならんことを要し、心は洪放ならんことを要す。疑ひを知らざる者は、只だ是れ便ち実作せざるなり。既に実作すれば則ち須らく疑ひ有るべし。必ず行はれざる処有る、是れ疑ひなり。心大なれば則ち百物皆通じ、心小なれば則ち百物皆病む。人功有りと雖も、学に及ばざるも、心も亦た宜しく忘るべからず。心苟も忘れざれば、則ち人事に接すと雖も即ち是れ実行にして、道に非ざる莫きなり。心若し之を忘るれば、則ち終身之に由るも、則ち是れ俗事なり。内外を合し、物我を平らかにす、此れ道を見るの大端なり。既に学びて先づ功業を以て意と為す者有れば、学に於て便ち相害す。既に意有れば、必ず穿鑿創意して事端を作起するなり。徳未だ成らずして先づ功業を以て事と為すは、是れ大匠に代はりて斲るなり、手を傷つけざること希なり。窃かに嘗て病む、孔孟既に没して、諸儒囂然として、約に反り源を窮むることを知らず、苟作に勇なり。逮ばざるの資を持して、急に後世に知られんとす。明者一覧すれば、肺肝を見るが如く然り。多く其の量を知らざるを見る。方に且に其の弊を創艾し、黙して吾が誠を養はんとす。顧みるに患ふる所は日力足らずして、未だ果たして他を為さざるなり。学未だ至らずして好んで変を語る者は、必ず終に患ひ有るを知る。蓋し変は軽々しく議すべからず。若し驟然として変を語れば、則ち操術の已に正しからざるを知る。凡そ事の蔽蓋して底を見ざるは、只だ是れ益を求めざるなり。人の其の道義を言ふを肯ぜざる有り、得る所至る所底を見るを得ず。又「言に於て説ばざる所無し」にも非ず。耳目外に役せらる。外事を攬る者は、其の実は是れ自ら隋(おこた)り(一本に「墮」に作る)、肯へて自ら治めず。只だ短長を言ひて、躬に反ること能はざる者なり。学者は大小志小にして気軽なるは宜しからず。志小なれば則ち足り易く、足り易ければ則ち進むに由無し。気軽なれば則ち未だ知らざるを以て已に知れりと為し、未だ学ばざるを以て已に学べりと為す。
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『近思録』巻3 致知凡そ思ひを致して説き得ざる処に到りて、始めて復た審らかに思ひ明らかに弁ず、乃ち善く学ぶと為す。告子の若きは則ち説き得ざる処に到りて遂に已み、更に復た求めず。伊川先生曰く、凡そ文字を看るには、先づ須らく其の文義を暁りて、然る後に其の意を求むべし。未だ文義暁らずして、意を見る者有らざるなり。学者は自得せんことを要す。六経は浩渺として、乍ち来たりて尽く暁り難し。且く路径を見得て後、各自ら一箇の門庭を立て得て、帰りて之を求めて可なり。凡そ文字を解するは、但だ其の心を易くすれば自ら理を見る。理は只だ是れ人理甚だ分明なり、一条の平坦底の道路の如し。詩に曰く、「周道は砥の如く、其の直きこと矢の如し」と。此の謂なり。或るひと曰く、聖人の言は、恐らくは浅近を以て他を看るべからず。曰く、聖人の言は、自ら近き処有り、自ら深遠なる処有り。近き処の如きは怎生(いかん)ぞ強ひて鑿ちて深遠ならしめ得んや。揚子曰く、「聖人の言は遠きこと天の如く、賢人の言は近きこと地の如し」と。頤之を改めて曰く、聖人の言は、其の遠きこと天の如く、其の近きこと地の如し。学者の文義に泥まざる者は、又全く背き却きて遠く去る。文義を理会する者は、又滞泥して通ぜず。子濯孺子の将たるの事の如き、孟子は只だ其の師に背かざるの意を取るのみ。人は須らく上面に就きて君に事ふるの道の如何なるかを理会すべし。又万章の舜の廩を完くし井を浚ふの事を問ふが如き。孟子は只だ他に大意を答ふるのみ。人須らく井を浚ひて如何にして出で得来たり、廩を完くして又怎生にして下り得来たるかを理会せんことを要せば、此くの若きの学は、徒に心力を費やすのみ。凡そ書を観るに相類を以て其の義に泥むべからず。爾らずんば、則ち字字相梗(ふさ)がる。当に其の文勢上下の意を観るべし、「充実せる之を美と謂ふ」の如き、詩の「美」と同じからず。問ふ、瑩中嘗て文中子を愛す、或るひと易を学ぶを問ふ。子曰く、「終日乾乾」にして可なりと。此の語最も尽くせり。文王の聖なる所以も、亦た只だ是れ箇の已まざるなり。
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