伝習録 / 答聶文蔚 二
聖賢論學,多是隨時就事,雖言若人殊,而要其工夫頭腦若合符節。緣天地之間,原只有此性,只有此理,只有此良知,只有此一件事耳。故凡就古人論學處說工夫,更不必攙和兼搭而說,自然無不脗合貫通者;才須攙和兼搭而說,即是自己工夫未明徹也。近時有謂「集義」之功,必須兼搭個「致良知」而後備者,則是「集義」之功尚未了徹也。「集義」之功尚未了徹,適足以為「致良知」之累而已矣。謂「致良知」之功必須兼搭一個「勿忘、勿助」而後明者,則是「致良知」之功尚未了徹也;「致良知」之功尚未了徹,適足以為「勿忘、勿助」之累而已矣。若此者,皆是就文義上解釋牽附,以求混融湊泊,而不曾就自己實工夫上體驗,是以論之愈精,而去之愈遠。文蔚之論,其於大本達道既已沛然無疑,至於「致知」、「窮理」及「忘、助」等說,時亦有攙和兼搭處,卻是區區所謂康莊大道之中,或時橫斜迂曲者,到得工夫熟後,自將釋然矣。文蔚謂「致知」之說,求之事親、從兄之間,便覺有所持循者,此段最見近來真切篤實之功。但以此自為不妨,自有得力處,以此遂為定說教人,卻未免又有因藥發病之患,亦不可不一講也。
新字:聖賢論學,多是随時就事,雖言若人殊,而要其工夫頭脳若合符節。縁天地之間,原只有此性,只有此理,只有此良知,只有此一件事耳。故凡就古人論學処説工夫,更不必攙和兼搭而説,自然無不脗合貫通者;才須攙和兼搭而説,即是自己工夫未明徹也。近時有謂「集義」之功,必須兼搭個「致良知」而後備者,則是「集義」之功尚未了徹也。「集義」之功尚未了徹,適足以為「致良知」之累而已矣。謂「致良知」之功必須兼搭一個「勿忘、勿助」而後明者,則是「致良知」之功尚未了徹也;「致良知」之功尚未了徹,適足以為「勿忘、勿助」之累而已矣。若此者,皆是就文義上解釈牽附,以求混融湊泊,而不曽就自己実工夫上体験,是以論之愈精,而去之愈遠。文蔚之論,其於大本達道既已沛然無疑,至於「致知」、「窮理」及「忘、助」等説,時亦有攙和兼搭処,卻是区区所謂康荘大道之中,或時横斜迂曲者,到得工夫熟後,自将釈然矣。文蔚謂「致知」之説,求之事親、従兄之間,便覺有所持循者,此段最見近来真切篤実之功。但以此自為不妨,自有得力処,以此遂為定説教人,卻未免又有因薬発病之患,亦不可不一講也。
書き下し
聖賢の学を論ずるは、多くは是れ時に随い事に就く。言は人ごとに殊なるが若しと雖も、而も其の工夫の頭脳を要するに、符節を合するが若し。天地の間に縁りて、原と只だ此の性有り、只だ此の理有り、只だ此の良知有り、只だ此の一件の事有るのみ。故に凡そ古人の学を論ずる処に就きて工夫を説かば、更に攙和兼搭して説くを必とせず。自然に脗合貫通せざる無き者なり。才かに攙和兼搭して説くを須いば、即ち是れ自己の工夫の未だ明徹ならざるなり。近時、「義を集む」の功は、必ず須らく個の「良知を致す」を兼搭して而る後に備わると謂う者有り。則ち是れ「義を集む」の功、尚お未だ了徹せざるなり。「義を集む」の功、尚お未だ了徹せずんば、適に以て「良知を致す」の累と為るに足るのみ。「良知を致す」の功は必ず須らく一個の「忘るる勿かれ、助くる勿かれ」を兼搭して而る後に明らかなりと謂わば、則ち是れ「良知を致す」の功、尚お未だ了徹せざるなり。「良知を致す」の功、尚お未だ了徹せずんば、適に以て「忘るる勿かれ、助くる勿かれ」の累と為るに足るのみ。此くの若き者は、皆な是れ文義の上に就きて解釈牽附し、以て混融湊泊を求めて、曾て自己の実工夫の上に就きて体験せず。是を以て之を論ずること愈々精にして、之を去ること愈々遠し。文蔚の論は、其の大本達道に於て既に已に沛然として疑い無し。「致知」「窮理」及び「忘・助」等の説に至りては、時に亦た攙和兼搭の処有り。却って是れ区区の所謂る康荘の大道の中に、或いは時に横斜迂曲なる者なり。工夫の熟するを得るの後に到らば、自ら将に釈然たらんとす。文蔚の「致知」の説を、之を親に事え兄に従うの間に求めて、便ち持循する所有るを覚ゆと謂うは、此の段、最も近来の真切篤実の功を見る。但だ此を以て自ら為すは妨げ無く、自ら力を得る処有り。此を以て遂に定説と為して人に教うれば、却って又た薬に因りて病を発するの患い有るを免れず。亦た一たび講ぜざるべからざるなり。
現代語訳
聖賢が学を論じるのは、多くは時と事に応じてだ。言葉は人ごとに違っても、工夫の中心は割符を合わせたように一致する。天地の間に、もともとこの性だけ、この理だけ、この良知だけ、この一件の事だけがある。だから古人が学を論じた所で工夫を説くのに、混ぜ合わせて言う必要はない。自然に一致し貫通する。混ぜ合わせて言う必要があるなら、それは自分の工夫がまだ明らかでないのだ。近ごろ「義を集める」功に、必ず「良知を致す」を兼ねて初めて備わると言う者がある。それは「義を集める」功が徹底していないのだ。徹底していなければ、かえって「良知を致す」の妨げになるだけだ。「良知を致す」功に必ず「忘れず、助けない」を兼ねて初めて明らかになると言えば、「良知を致す」功が徹底していないのだ。こうしたものはみな、文の意味の上で解釈をこじつけ、融合させようとして、自分の実際の工夫の上で体験していない。だから論じるほど精密になり、離れるほど遠くなる。あなたの論は、大本と達道においてはすでに疑いがない。「致知」「窮理」「忘・助」などの説には、時に混ぜ合わせる所がある。それが大通りを走りながら時に斜めに逸れることだ。工夫が熟せば、自ずと解けるだろう。