鬼谷子 / 内揵篇
故逺而親者、有隂徳也。近而疏者、志不合也。就而不用者、䇿不得也。去而反求者、事中來也。日進前而不御者、施不合也、遙聞聲而相思者、合於謀待決事也。故曰:不見其類而爲之者、見逆、不得其情而說之者、見非。
新字:故遠而親者、有陰徳也。近而疏者、志不合也。就而不用者、策不得也。去而反求者、事中来也。日進前而不御者、施不合也、遥聞声而相思者、合於謀待決事也。故曰:不見其類而為之者、見逆、不得其情而説之者、見非。
書き下し
故に逺くして親しき者は、隂徳有ればなり。近くして疏き者は、志合わざればなり。就きて用いられざる者は、䇿得ざればなり。去りて反って求めらるる者は、事中りて來たればなり。日々前に進むも御いられざる者は、施し合わざればなり。遙かに聲を聞きて相い思う者は、謀に合いて事を決するを待てばなり。故に曰く、其の類を見ずして之を爲す者は、逆らわると。其の情を得ずして之を說く者は、非とせらると。
現代語訳
だから、遠く離れているのに親しいのは、内に徳があるからである。近くにいるのに疎いのは、志が合わないからである。就いて仕えても用いられないのは、策が的を得ていないからである。去ったのに逆に求められるのは、その事が的中して返ってきたからである。毎日目の前に出ても用いられないのは、差し出すものが合っていないからである。遠く声を聞くだけで互いに思い合うのは、謀りごとが合っていて決断の時を待っているからである。だから言う。相手の類を見ずに事を行う者は逆らわれる。相手の実情をつかまずに説く者は、非とされる。
解説
冒頭に並べた六つの不思議が、ここですべて解かれます。近くにいて疎いのは志が合わないから、毎日出ていて用いられないのは差し出すものが合っていないから。原因はどれも「合っていない」の一語に集約されます。距離でも頻度でも熱意でもない。そして結論の二句が厳しい。相手の類を見ずに行えば逆らわれ、実情をつかまずに説けば否定される。営業でも社内提案でも、通らない原因の大半はここです。回数を増やしても、合っていないものは合いません。
この章句が説くこと
就きて用いられざるは策得ざればなり其の情を得ずして説く者は非とせらる見極め交渉洞察説得
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